私が考える書写、国語教育の意義
2023.01.23
久しぶりの投稿となる。
年末年始、多忙を極め、気が付けば、年を越していた。
改めまして、皆様、今年もよろしくお願いいたします。
私は、この「寺子屋『玉川未来塾』」主催の勉強会やイベント開催の他に、習字教室を営んでいる。そのため、年末は「かきぞめ課題」のお稽古や、学校の冬休みの宿題で出される「かきぞめ」の体験教室を開催するため、一年のうちで一番多忙を極める時期となるが、「PRESIDENT Online」に「なぜ全員同じ字を書かせるのか…冬休み宿題「書き初め」は教育的に問題と言える納得の理由」と題する、公立小学校教員の記事が目に留まった。この現役小学校教員は「書き初めはそれぞれが新年の抱負などを書けばいいのに、学校が課題の文字を決めるのはおかしい。また、仕上げた作品を全員分並べて掲示し、評価することに強い違和感を覚える」という。
「現代における習字の習い事や、書道の価値を否定するものではない」と前提条件をつけてはいるが、以下の理由で違和感を覚えるという。
・「書き初め」は正月二日にするのが習わしであるようだが、本来はめでたい詩歌などを書くので、練習し続けた字を書いて、「校内掲示用」「コンクール提出用」に出すようなものではなく、一律に与えられた課題でもない。上手でも下手でも、心をこめて自分で選んだ新年の抱負などを書き、決意を新たにすればいい。ところが「練習」として正月に書いた時点で、実は既に「書き初め」としての役割を終えている。
・書き初めを学校教育として行うのならば、「清書」は「校内書き初め大会」などの学校教育の場で書いたもののみを認めるべきで、家で書いたものを「清書」として出すのは、コンテスト実施の平等性を欠いている。
・書字に筆と墨を用いない現代において、冬休みに家庭でわざわざ書き初め練習をするという宿題内容自体を問う必要がある。
この小学校教師は、習字教室に真剣に通っている子供を誉め、称えている記述はあるものの、「習字教室に通わず、美しい字を書くことに特にこだわりのない子はどうだろう」と、習字教室に通っていない子供に焦点を当てており、そして「筆者のように習字が苦手な子供たちが、いつもより多少努力したぐらいでは到底及ばない。そして、多くの子供にとって、習字に対して高いモチベーションは、ない」と結論づけ、さらには「好きでもないことは『最低限やる』『とりあえず課題を消化する』という程度しか努力できない」としているのである。
この文章を見て、私は「書写教育における小学校教員の役割って何なのか」と疑問を抱いた。
すると、いきなり、以下の論調が繰り広げられる。
「本当に好き、あるいは目的意識のある人の出す結果とは、比較にならない。つまりは、『書き初め練習100枚』は、現代において改めるべき「冬休みの宿題」の一つである。多様性が認められる今の時代、ここにこれほどいらぬ負荷をかける妥当性はない。繰り返すが、100枚練習すること自体が悪いわけではない。書くことへのモチベーションが高い子供、高みを目指す子供にとっては意味がある。その子供は『100枚書かされる』のではなく、『100枚以上書く』のである。問題は、書かされる子供たちである。家の環境的に、到底それをやれるような状態にない子供もいる。家に書き初め用紙を広げて、集中して何時間も書き続ける、というのは、けっこう手間のかかる作業である」と。
いきなり「書き初め練習100枚書かせられる」と前触れもなく、あたかもそれが何の根拠も示さず、事実のような論調が本文に用いられていたことに、私はますます大きな違和感を抱いた。私が我が習字教室で学校のかきぞめの宿題を教えていて、100枚以上書く生徒さんに出会ったことがない。いったい、どこの小学校で100枚以上書くことを強いているのか。
そして、最後に以下の論調が紹介される。
「そもそも、冬『休み』にわざわざ『宿題』を出してあげようというお節介な親切心からしてそろそろ見直すべきである。正月というのは、本来家族のみんなが休む時である。そのためにお節料理だってある。ただでさえ短い冬休みなのだから、宿題から解放してあげてもよいのではないか。やがて受験生になればこの時期も勉強するしか選択肢がないのだし、休める時には休ませてあげればいい。そして当の受験生にとっては、学校の宿題による親切なぞ「邪魔」にしかならない。目の前の試験など、やるべきことに集中すべき時である。せっかく『師走』の忙しい時期を駆け抜けたのだから、新年ぐらい、ゆったりと構えて迎えたいところである」。
この現役小学校教員は、他の教科も含めた冬休みの宿題全体について疑問を言いたいのか、書写教育の在り方の疑義について言いたいのか、論点が一緒くたになっていて、本当に言いたいことがどちらなのかが分からない。「課題を分離」できていないのではないかと私は感じた。
個人の主張や意見に私が論じる立場でもないし、その人の「一」考え方であるため、そういう考え方もあると思うが、私は異なる考え方を持つ。
平成29年に学習指導要領が改正された。その新学習指導要領では、小学校国語科について「教科の目標」は,次のとおりであるとしている。
「言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
⑴ 日常生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。
⑵ 日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を養う。
⑶ 言葉がもつよさを認識するとともに,言語感覚を養い,国語の大切さを自覚し,国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う」。
さらには、「国語の大切さを自覚し,国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養うことを求めているのは,我が国の歴史の中で育まれてきた国語が,人間としての知的な活動や文化的な活動の中枢をなし,一人一人の自己形成,社会生活の向上,文化の創造と継承などに欠かせないからである。国語の大切さを自覚し,国語に対する関心を高め,話したり聞いたり書いたり読んだりすることが,児童一人一人の言語能力を更に向上させていく。その中で,国語を愛護し,国語を尊重して,国語そのものを一層優れたものに向上させていこうとする意識や態度も育っていくのである」としている。
そして、書写については「各教科等の学習活動や日常生活に生かすことのできる書写の能力を育成することが重要となる。文字のまとまった学習は,小学校入学を期に始まる。文字を書く基礎となる「姿勢」,「筆記具の持ち方」,「点画や一文字の書き方」,「筆順」などの事項から,「文字の集まりの書き方」に関する事項へと,内容を系統的に示している。さらに,文字や文字の集まりの書き方を基礎として,筆記具を選択し効果的に使用するなど、目的や状況に応じて書き方を判断して書くことについて示している」と。
また、習字、書写と書道の違いは何か。
「習字」は文字通りに字を習うことを指し、字の正しい書き順や美しい字の書き方を習う。
「書写」は、文字通り文字を書き写すこと。小・中学校の国語の授業の一部として行われるのが「書写」である。 習字と同様に、誰が見ても綺麗だと思うような正しく整った字を書くことを目指している。
対して「書道」は字を通した自己表現が最大の目的。文字が生み出す美しさを追求することが書道の定義・目的であり、書によって表現される芸術を意味する。
私は「習字」も「書写」も同じ意味合いを持つとして、習字教室を営み、子供や大人に「書」を「お手本」を元に教えている。同じ文字を、生徒部は同じ学年、漢字部は漢字部の文字を段級位に応じて書かせることによって、その書き手の心、子供の心の動きが手に取って知ることができる場合がある。
「字は心をあらわす」というが、同じ学年の子供が、同じ字を書くことで、その子供の持っている特性をそれぞれ知ることができ、見出せるのである。そして、一律に指導すべき点や、その子供の得意不得意を知ることで、それぞれに見合った個別の指導ができるのである。
また、「書道」は日本の文化・伝統である。「書によって表現される芸術を意味する」ものでもあるが、特にひらがなを生んだ先人たちの苦労は計り知れないものであり、我が先祖たちは漢字からひらがなを作り出した素晴らしい民族なのである。そうした誇りも教えようと思えば教えられるであろう。
習字を習いたいという子供たちは増えている。しかし、書道人口は減っているという情報もあるが、それは定かではない。現実には「周りに習字教室がないからあきらめていた」と言う保護者の方が多い。私は、ネット環境、SNSを駆使して、ホームページやYouTubeチャンネルを作成している。「習字教室」などと検索すると検索エンジンに引っ掛かってくれるので、体験やご入会の申し込みをいただく。仕事場では、パソコンなどを使用するが、まだまだ手書きであるものは数多く存在するし、その手書きで書く文字は人柄をあらわす。苦手とか、嫌いと言って諦めるのではなく、「どうしたら上手に書けるのだろう」という考え方を子供たちに教えることも指導者の役割であると私は考えて、日頃、指導しているし、今後もそのようにし続けていきたいと思う。
年末年始、多忙を極め、気が付けば、年を越していた。
改めまして、皆様、今年もよろしくお願いいたします。
私は、この「寺子屋『玉川未来塾』」主催の勉強会やイベント開催の他に、習字教室を営んでいる。そのため、年末は「かきぞめ課題」のお稽古や、学校の冬休みの宿題で出される「かきぞめ」の体験教室を開催するため、一年のうちで一番多忙を極める時期となるが、「PRESIDENT Online」に「なぜ全員同じ字を書かせるのか…冬休み宿題「書き初め」は教育的に問題と言える納得の理由」と題する、公立小学校教員の記事が目に留まった。この現役小学校教員は「書き初めはそれぞれが新年の抱負などを書けばいいのに、学校が課題の文字を決めるのはおかしい。また、仕上げた作品を全員分並べて掲示し、評価することに強い違和感を覚える」という。
「現代における習字の習い事や、書道の価値を否定するものではない」と前提条件をつけてはいるが、以下の理由で違和感を覚えるという。
・「書き初め」は正月二日にするのが習わしであるようだが、本来はめでたい詩歌などを書くので、練習し続けた字を書いて、「校内掲示用」「コンクール提出用」に出すようなものではなく、一律に与えられた課題でもない。上手でも下手でも、心をこめて自分で選んだ新年の抱負などを書き、決意を新たにすればいい。ところが「練習」として正月に書いた時点で、実は既に「書き初め」としての役割を終えている。
・書き初めを学校教育として行うのならば、「清書」は「校内書き初め大会」などの学校教育の場で書いたもののみを認めるべきで、家で書いたものを「清書」として出すのは、コンテスト実施の平等性を欠いている。
・書字に筆と墨を用いない現代において、冬休みに家庭でわざわざ書き初め練習をするという宿題内容自体を問う必要がある。
この小学校教師は、習字教室に真剣に通っている子供を誉め、称えている記述はあるものの、「習字教室に通わず、美しい字を書くことに特にこだわりのない子はどうだろう」と、習字教室に通っていない子供に焦点を当てており、そして「筆者のように習字が苦手な子供たちが、いつもより多少努力したぐらいでは到底及ばない。そして、多くの子供にとって、習字に対して高いモチベーションは、ない」と結論づけ、さらには「好きでもないことは『最低限やる』『とりあえず課題を消化する』という程度しか努力できない」としているのである。
この文章を見て、私は「書写教育における小学校教員の役割って何なのか」と疑問を抱いた。
すると、いきなり、以下の論調が繰り広げられる。
「本当に好き、あるいは目的意識のある人の出す結果とは、比較にならない。つまりは、『書き初め練習100枚』は、現代において改めるべき「冬休みの宿題」の一つである。多様性が認められる今の時代、ここにこれほどいらぬ負荷をかける妥当性はない。繰り返すが、100枚練習すること自体が悪いわけではない。書くことへのモチベーションが高い子供、高みを目指す子供にとっては意味がある。その子供は『100枚書かされる』のではなく、『100枚以上書く』のである。問題は、書かされる子供たちである。家の環境的に、到底それをやれるような状態にない子供もいる。家に書き初め用紙を広げて、集中して何時間も書き続ける、というのは、けっこう手間のかかる作業である」と。
いきなり「書き初め練習100枚書かせられる」と前触れもなく、あたかもそれが何の根拠も示さず、事実のような論調が本文に用いられていたことに、私はますます大きな違和感を抱いた。私が我が習字教室で学校のかきぞめの宿題を教えていて、100枚以上書く生徒さんに出会ったことがない。いったい、どこの小学校で100枚以上書くことを強いているのか。
そして、最後に以下の論調が紹介される。
「そもそも、冬『休み』にわざわざ『宿題』を出してあげようというお節介な親切心からしてそろそろ見直すべきである。正月というのは、本来家族のみんなが休む時である。そのためにお節料理だってある。ただでさえ短い冬休みなのだから、宿題から解放してあげてもよいのではないか。やがて受験生になればこの時期も勉強するしか選択肢がないのだし、休める時には休ませてあげればいい。そして当の受験生にとっては、学校の宿題による親切なぞ「邪魔」にしかならない。目の前の試験など、やるべきことに集中すべき時である。せっかく『師走』の忙しい時期を駆け抜けたのだから、新年ぐらい、ゆったりと構えて迎えたいところである」。
この現役小学校教員は、他の教科も含めた冬休みの宿題全体について疑問を言いたいのか、書写教育の在り方の疑義について言いたいのか、論点が一緒くたになっていて、本当に言いたいことがどちらなのかが分からない。「課題を分離」できていないのではないかと私は感じた。
個人の主張や意見に私が論じる立場でもないし、その人の「一」考え方であるため、そういう考え方もあると思うが、私は異なる考え方を持つ。
平成29年に学習指導要領が改正された。その新学習指導要領では、小学校国語科について「教科の目標」は,次のとおりであるとしている。
「言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
⑴ 日常生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。
⑵ 日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を養う。
⑶ 言葉がもつよさを認識するとともに,言語感覚を養い,国語の大切さを自覚し,国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う」。
さらには、「国語の大切さを自覚し,国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養うことを求めているのは,我が国の歴史の中で育まれてきた国語が,人間としての知的な活動や文化的な活動の中枢をなし,一人一人の自己形成,社会生活の向上,文化の創造と継承などに欠かせないからである。国語の大切さを自覚し,国語に対する関心を高め,話したり聞いたり書いたり読んだりすることが,児童一人一人の言語能力を更に向上させていく。その中で,国語を愛護し,国語を尊重して,国語そのものを一層優れたものに向上させていこうとする意識や態度も育っていくのである」としている。
そして、書写については「各教科等の学習活動や日常生活に生かすことのできる書写の能力を育成することが重要となる。文字のまとまった学習は,小学校入学を期に始まる。文字を書く基礎となる「姿勢」,「筆記具の持ち方」,「点画や一文字の書き方」,「筆順」などの事項から,「文字の集まりの書き方」に関する事項へと,内容を系統的に示している。さらに,文字や文字の集まりの書き方を基礎として,筆記具を選択し効果的に使用するなど、目的や状況に応じて書き方を判断して書くことについて示している」と。
また、習字、書写と書道の違いは何か。
「習字」は文字通りに字を習うことを指し、字の正しい書き順や美しい字の書き方を習う。
「書写」は、文字通り文字を書き写すこと。小・中学校の国語の授業の一部として行われるのが「書写」である。 習字と同様に、誰が見ても綺麗だと思うような正しく整った字を書くことを目指している。
対して「書道」は字を通した自己表現が最大の目的。文字が生み出す美しさを追求することが書道の定義・目的であり、書によって表現される芸術を意味する。
私は「習字」も「書写」も同じ意味合いを持つとして、習字教室を営み、子供や大人に「書」を「お手本」を元に教えている。同じ文字を、生徒部は同じ学年、漢字部は漢字部の文字を段級位に応じて書かせることによって、その書き手の心、子供の心の動きが手に取って知ることができる場合がある。
「字は心をあらわす」というが、同じ学年の子供が、同じ字を書くことで、その子供の持っている特性をそれぞれ知ることができ、見出せるのである。そして、一律に指導すべき点や、その子供の得意不得意を知ることで、それぞれに見合った個別の指導ができるのである。
また、「書道」は日本の文化・伝統である。「書によって表現される芸術を意味する」ものでもあるが、特にひらがなを生んだ先人たちの苦労は計り知れないものであり、我が先祖たちは漢字からひらがなを作り出した素晴らしい民族なのである。そうした誇りも教えようと思えば教えられるであろう。
習字を習いたいという子供たちは増えている。しかし、書道人口は減っているという情報もあるが、それは定かではない。現実には「周りに習字教室がないからあきらめていた」と言う保護者の方が多い。私は、ネット環境、SNSを駆使して、ホームページやYouTubeチャンネルを作成している。「習字教室」などと検索すると検索エンジンに引っ掛かってくれるので、体験やご入会の申し込みをいただく。仕事場では、パソコンなどを使用するが、まだまだ手書きであるものは数多く存在するし、その手書きで書く文字は人柄をあらわす。苦手とか、嫌いと言って諦めるのではなく、「どうしたら上手に書けるのだろう」という考え方を子供たちに教えることも指導者の役割であると私は考えて、日頃、指導しているし、今後もそのようにし続けていきたいと思う。