終戦80年に向けて⑧~特攻作戦80年の日に思う
2024.10.26
特攻作戦が敢行されて80年。昭和19年10月25日、日米海軍の主力が激突したフィリピン沖海戦で、関行男大尉率いる敷島隊などの零戦や艦上爆撃機が体当たりし、護衛空母1隻撃沈などの戦果をあげた。第1陣である海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊がフィリピン・レイテ島沖の米艦隊に突入してから80年を迎えた。

特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということ。重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという『必死』条件の作戦であった。
特攻隊員の戦死者は、公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が4,146人、陸軍が2,225人の計6,371人に上る(ただし、資料によっては人数に差異があり、戦死者数は確定されていない)。
特攻作戦の立案者の大西瀧治郎海軍中将自身、この作戦を「統率の外道」と認めていたように戦術として異常である。しかし、何故、特攻作戦をしなければならなかったのか。このブログでも何度も問いかけた。しかし、この特攻を語るに、特攻に殉じた若者、そしてそれを命じた者たちに分けて話をする必要があるというのは、自分の答えの中のひとつである。

「靖國で会おう」「後に続くを信ず」との想いを胸に、国を親兄弟を恋人を故郷を護ろうと出撃し散華された若者たち。軍上層部への不信感を募らせながらも自らが命を懸けると決心して立ち上がった者もいただろう。「命を懸けてでも約束を守ります」とよく政治家が言うが、特攻隊員の方々の想いを知れば知るほど、そう簡単に「命を懸ける」なんて私は言えない。二度とこんなことがあってはならい。10月25日付産経新聞の主張の欄にも書いてあったが、「現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある」と。その通りである。


残された遺族はどんな思いだったのか。

ひとつの手紙を紹介したい。

「天国のあなたへ 秋田県 柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの『きみまち坂』につれていってもらいたい。
 春のあでやかな桜花、
 夏なまめかしい新緑、
 秋ようえんなもみじ、
 冬清らかな雪模様など、
四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね」。

秋田県二ツ井町が主催した1995年2月14日バレンタインデー「第1回日本一心のこもった恋文」大賞に輝いた柳原タケさんが書いたものである。柳原さんは当時80才で秋田市に住んでおられた。この文は靖国神社の遊就館のビデオにも紹介されており、元雑誌「正論」編集長の大島信三氏のブログにもこの文と出合った時の感動が述べられている。

「戦死した夫は三十二歳のままで柳原タケさんの心の中に生き続けています。傘寿(さんじゅ)とありますから、この天国への書簡はタケさんが八十歳のときに書いたものであることがわかります。おそらくタケさん自身もずっと新婚当時の気持ちのままで夫と対話してきたのでしょう。それにしても、なんとも瑞々しい文章です。愛情の継続性に驚嘆します。
同時に、つかの間の新婚生活しか過ごせなかった時代に巡り合わせてしまった不遇にことばもありません。この一文をメモ帳に書き留めていましたら、三人連れの中年女性が立ち止まりました。彼女たちは読み終えたあと、嗚咽しながらその場を離れていきました」。

…言葉にならない…。今、この文を書いていて、涙が溢れてくる…。


かたや特攻を命じた者の想いはどうであったか。

著書『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀著=ノンフィクション作家、写真家)は、著者による聞き書きをもとにして、そもそも特攻とは何か、大西中将の実像とはいかなるものだったのかが、編まれているが、その中の文章が端的に表現されているので、以下引用したい。
「昭和19年11月下旬、部下の特攻機を率いてフィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地に派遣されたさい、大西の右腕である第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐から聞かされた話である。角田はかつて、小田原から計器飛行を教わったことがあった。小田原は、『教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようと言うのに、黙っているわけにはいかない』と、大西から、『参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』と言われていたというその真意を話してくれたのだ。小田原大佐の語った大西中将の真意を、角田は克明に記録している」と。
そして、それは「これ(特攻によるレイテ防衛)は、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。敵に対してはあくまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておかねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員の後を追うであろう」。

…考えさせられる…。

先述の産経新聞「主張」では、以下のように記している。

「特攻は戦後、『軍国主義の象徴』などと批判された。選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。特攻を『カミカゼ』と呼んだ米軍は、異常な戦術とみなす一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。特攻は、世界が日本人を強い存在とみなす一因となり、戦後の日本も守ってくれている。
特攻に赴いた将兵一人一人にさまざまな思いがあったことを想像するとき、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない」。

寺子屋「玉川未来塾」では、今年は「特攻作戦から80年」をテーマにイベントを開催した。そして、来年は「終戦80年」をテーマにイベントを開催する。今日の日本の平和があるのは命を賭して戦ってくれた先人のお陰で、その英霊の尊い犠牲の上に今の平和があるのである。
「特攻を賛美するな」とか「戦争に賛成なのか」などとご批判をいただくことがある。しかし、賛美もしていないし、戦争は絶対に反対である。
そうではなくて、実際に、命を懸けて戦ってくれた先人がいるという事実にスポットを当てた時に、なぜ、その先人に感謝の気持ちを述べることがいけないのか。何故、英霊が祀られている靖國神社を感謝の誠を胸に参拝してはいけないのか。事実を客観的に見ていけば、その答えが、私が行うイベントの「事実」なのであって、誰も何も言えないはずである。英霊への感謝以外の何物でもない。

結びに、先日開催したイベントでお話をいただいたジャーナリストの上島嘉郎元雑誌「正論」編集長からの次代を担う若者たちへのメッセージでいただいた言葉で締めたいと思う。
「ご両親を大事に、無限の希望を持って羽ばたいてほしい。そして、彼らがいたということを忘れないで欲しいし、忘れることは二度殺すことになる。日本の未来は次代を担う若者にかかっているが、それはそれとして、自分の人生をいかに充実させて大切に生きていくかを考えてほしいし、自分の人生を充実させて生きていくことが、どこか日本の国のために役立つこと、自分以外の誰かのために役立てるということを意識して欲しい。思いは繋がっており、自分は一人ではなく、大きな日本人という民族の一人としての存在である」。

心の奥深くに噛み締めたい。
2024.10.26 10:51 | 固定リンク | その他
終戦80年に向けて⑥~特攻の真意とは
2024.08.25
今年は特攻作戦から80年。この年に私は「何故、特攻がなされたのか」を追求すべく、色々な本を読みあさっているが、その中で、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀著=ノンフィクション作家、写真家)、そして『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』(角田和男著=零戦搭乗員・角田和男少尉〈のち中尉〉)の中に、特攻の真意があると感じている。

『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』は、著者による聞き書きをもとにして、そもそも特攻とは何か、大西中将の実像とはいかなるものだったのか、編まれている。
特攻の発想が生まれた経緯。そもそも特攻戦術を発案したのは大西中将ではなかったこと。大西中将がフィリピンに着任して特攻戦術の責任者として任命される前から、特攻戦術はすでに幾度も提案され試作機も作られていたこと。大西中将のフィリピン着任が、太平洋戦争で最後に残された戦局挽回の好機だったレイテ沖海戦の前だったこと。栗田艦隊のレイテ湾突入に際し、敵空母の甲板を使用不能にするため、特攻戦術の発動が要請されたことなど。それらの事実を著者は掘り起こし、丹念に関係者から聞き取ることで特攻や大西中将の実像を浮き彫りにしている。中でも戦時中、大西中将の副官として仕えた門司親徳氏と、特攻の戦果を見届けるのが役目の直掩機に長く搭乗し続けた角田和男氏からは、かなりの時間をかけてお話を伺ったようである。

門田隆将氏も薦めているという『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』は、ソロモンで、硫黄島上空で、決死の戦いを繰り広げ、ついには「必死」の特攻作戦に投入された零戦ベテラン・パイロット、角田和男中尉が綴る記録。
大東亜戦争における撃墜王で、昭和9(1934)年、海軍予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊したときの副長兼教頭が、当時大佐だった大西瀧治郎で、その後、中国大陸で戦ったときも、大西は連合航空隊司令官として角田氏の上官だった。その著書は、克明に記録された内容を元に綴られている。

その中で、先述の神立氏が、詳細に述べている箇所があるので引用し、記したい。

「昭和19年11月下旬、部下の特攻機を率いてフィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地に派遣されたさい、大西の右腕である第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐から聞かされた話である。角田はかつて、小田原から計器飛行を教わったことがあった。小田原は、『教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようと言うのに、黙っているわけにはいかない』と、大西から、『参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』と言われていたというその真意を話してくれたのだ。小田原大佐の語った大西中将の真意を、角田は克明に記録している」と。
そして、それは「これ(特攻によるレイテ防衛)は、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。敵に対してはあくまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておかねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員の後を追うであろう」。


時を経るにつれ、特攻の父と称される大西中将への誹謗は増し、エキセントリックなイメージが独り歩きするが、本書や他の戦史を読む限りでは、大西中将は、敗戦が濃厚になってもなお徹底交戦を唱え続け、果てには「二千万の将兵が特攻すべき」と主張し続けたことに「悪名高き大西中将」の理由がありそうである。しかし、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』を読む限りでは、大西中将がそのような言動に走ったのは内地に戻ってからのようで、特攻の責任者であったフィリピンでの在任時は、温厚で情のある中将でいた様子が伺える。
そして、大西中将が考えていた意志とは、フィリピンの戦いで太平洋戦争に終止符を打つ、ということであったという。「戦争はもはや、搭乗員自らが敵機に突入せねばならないところまできています。陛下、どうか戦争終結の御聖断を!」というのが大西中将の真意ではなかったのではないか。

そして、先程の大西中将の話を裏付ける記事がある。
昭和37年8月9日付の朝日新聞に掲載された、「最後の従軍」という連載記事で、その作者は作家の「山岡荘八」氏。従軍記者をしていた山岡氏は、これから出撃しようとしている西田高光中尉に「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのかどうか?」「もし負けても、悔いはないのか?」「今日の心理になるまでにどのような波があたのか?」など、厳しい質問をした中で、西田中尉は以下のように答えるのである。
「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなど思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです…おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに…」。
こうした証言は、命を賭して戦うことが、ゆくゆくの日本を担う礎となるであろうことを信じていたことだと、物語るものだと思うのである。

先人の想いを継ぐ我々は、この特攻作戦によって命を賭して戦った英霊の想いを継ぎ、これからの日本が良くなるために尽力しなければならないことが、使命である。そして、この特攻作戦で散華した英霊には、「今日の日本の平和があるのは、先人のおかげです、『ありがとうございます』」と感謝の誠を捧げるとともに、これからも、二度と戦争の悲劇が起こらないようにすることは言うまでもないが、戦争体験者が矢継ぎ早に鬼籍に入られる中、正しい歴史や、その真実を知る者が少なくなる中で、こうした現状を鑑みた時に、元軍人から直接聞いた者たちが、率先して誤った歴史が独り歩きしないよう、正しい歴史を次代へ語り継いでいくことが、とても大切であると思ってならない。そして、私もこれからの若者たちにその想いを繋いでいきたいと思う。
2024.08.25 13:14 | 固定リンク | その他
戦後79年目の夏~『神やぶれたまはず』より
2024.08.15
今年もまた、8月15日「敗戦の日」がやってきた。忘れてはならない4つの日の一つである。

「忘れてはならない4つの日」とは。
一つは6月23日「沖縄慰霊の日」
二つは8月6日の「広島原爆の日」
三つは8月9日「長崎原爆の日」
四つは8月15日の「終戦の日」
であり、上皇陛下はこの4つを「忘れてはならない日」として挙げている。

79年前のこの日、正午に昭和天皇による「終戦の詔書」は、ラジオで玉音放送が流れた。
その全文を以下に記したい。

【原文】
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ
朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ  他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ 朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海將兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庻ノ奉公 各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ 終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及 其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ 苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ 爲ニ大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

【現代語訳】
私(昭和天皇)は、世界の情勢と日本が置かれている状況とを深く考えあわせて、緊急の手段をもってこの事態を収めようと思い、私の忠良なる国民に告げる。
私は、わが日本政府をもって、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4か国に対し、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を通告させた。
そもそも、わが国民が平穏に、安らかに暮らせるように心がけ、世界が共に栄えて、その喜びを共有することは、歴代天皇が手本として遺してきた教えであり、私も常にその考えを持ち続けてきた。
アメリカとイギリスに宣戦を布告した理由も、日本の自存と東アジアの安定を心から願ったためであり、他国の主権を排除したり、領土を侵略するようなことは、私の意志とはまったくもって異なる。
この戦争がはじまり、すでに4年が経過した。その間も陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちは職務に励み、一億国民もそれぞれの職域で努力し、最善を尽くしたが、戦局は必ずしもわが方に好転したとは言えず、世界の情勢もまた日本にとって不利である。
それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を(広島、長崎で)使用し、罪なき人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知ることができない。
このような状況でなおも戦争を続ければ、わが日本民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。
そのようなことになれば、私はどうして我が子に等しい国民を守り、歴代天皇の御霊に謝ることができようか。
これこそが、私がポツダム宣言を受諾するようにした理由である。
ポツダム宣言の受諾に至って、私は、日本とともにアジア解放に協力した友好諸国に対して遺憾の意を表明しないわけにはいかない。
日本国民も、戦死したり、職場で殉職したり、不幸な運命で亡くなった人、またその遺族のことを考えると、悲しみで身も心も引き裂かれる思いだ。
戦争で負傷し、空襲などの戦災に見まわれて、家や仕事を失った人たちの生活を考えると、とても心配で胸を痛めている。
これから日本が受けるであろう苦難は、筆舌に尽くしがたいものであろう。国民みなの気持ちも、私はよくわかっている。
けれども私は、時の運命に導かれるまま、耐え難いことにも耐え、我慢ならないことにも我慢して、人類の未来のために平和の実現を計りたい。
私は、ここに国体を護ることができ、忠良なる国民の真心を信頼しつつ、常に国民と一緒にいる。
もし感情のままに、みだりに争いごとや問題を起こしたり、仲間同士で互いを陥れたり、時局を混乱させたりして、人が行うべき道を誤り、世界から信用を失うようなことになれば、それは私が最も戒めたいことだ。
全国民が家族のように一致団結し、この国を子孫に伝え、神国(日本)の不滅を固く信じて、国家の再建と繁栄の任務は重く、その道のりが遠いことを心に留め、持てる総ての力を将来の建設に注ぎ、道義心を大切にし、志を固く守って誓い、わが国の真価を発揮して、世界の発展に遅れをとらないよう努力しなければならない。
国民には、これが私の意志だと、よく理解して行動してほしい。


『神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午』(中央公論新社)の著書、長谷川三千子氏は、この8月15日を「昭和二十年八月のある一瞬-ほんの一瞬-日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコーストのたきぎの上に横たはつてゐたのである」と言う。
「モンテーニュとの対話 『随想録』を読みながら」の産経新聞社文化部で元雑誌正論編集長の桑原聡氏の言葉を借りるならば、《一国の歴史において、ある「特別の瞬間」というものが存在する。その瞬間の意味を知ることは、国の歴史全体を理解することであり、その瞬間を忘却することは、国の歴史全体を喪失することであると、長谷川さんは述べ、その瞬間をよみがえらせ、意味を問い、その答えを得ようとする。戦後日本人の根無し草的な生は、その瞬間を忘却しているからに他ならないからだ。「特別な瞬間」とは、玉音放送が流れた昭和20年8月15日正午のことである。21年生まれの長谷川さんは、「特別な瞬間」に立ち会い、鋭敏な感受性と知性でとらえた折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、太宰治、伊東静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫の言説を丹念に検証し、さらに旧約聖書の「イサク奉献」をめぐるジャック・デリダやキルケゴールの考察を取り上げて、神と人間の根本関係について思索を進める》と語る。
そして、《8月9日、ポツダム宣言受諾をめぐって閣僚会議が開催されるが結論は出ないその夜、御前会議が開かれ、天皇陛下のご判断を仰ぐこととなる。御前会議に同席していた内閣書記官長の迫水常久氏は天皇陛下のこのときのお言葉をこう伝えている。
「このまま戦争を本土で続ければ日本国は亡びる。日本国民は大勢死ぬ。日本国民を救い国を滅亡から救い、しかも世界の平和を、日本の平和を回復するには、ここで戦争を終結する他はないと思う。自分はどうなっても構わない」
かくして天皇陛下は、たきぎの上に横たわっている国民の隣にご自身を横たえたのだ。戦後の日本はそこから出発した。この「特別の瞬間」を忘却のふちからすくい上げ、きちんと意味づけることができない限り、われわれは精神のまひ状態から抜け出すことはできないだろう。》
さらに、
《昭和7年生まれの文芸評論家、桶谷秀昭さんは文庫判の解説にこんな言葉を寄せている。
「私は想像する、近い将来ではないが、いつか、八月十五日正午のあの瞬間が、ノスタルジイとして共有されるとき、戦後日本は決定的な精神の変革をもつであらう。そのとき、あの『あの瞬間』の記憶は、保田與重郎(よじゅうろう)風に言へば、『偉大なる敗北』となるであらう」
『いつか』とは、いったいいつのことだろう。モンテーニュは言っている。
『いつかできることはすべて、今日もできる』》。

今年も、当時の「あのシーンとした国民の心の一瞬」に思いを馳せ、英霊に対し感謝の誠を捧げ、今一度、今日命あるありがたみを感じていきたいと思う。
2024.08.15 07:52 | 固定リンク | その他
終戦80年に向けて④~靖國神社をお支えするということ
2024.07.22
今年は特攻作戦から80年、そして、来年は終戦80年を迎える。昭和から平成、令和と時代が移り、戦争体験者が急速に減っている中、戦後生まれの人口が全体の8割を超え、戦争が「記憶」から「歴史」へと変わりつつある。「かつて日本軍は、アジア諸国を侵略し、略奪するなどをして地元の人々に大変つらい思いをさせたことを今でもアジアの諸国民は恨み続けている」と教えられた間違った歴史を今でも信じ、正しい歴史を知らない世代も少なくないのが現状である。

色々な人がいるし、どんな思想を持とうが、それは個人の自由だが、しかし、今日の平和があるのは、間違いなく先の大戦で命を賭して戦ってくださった英霊のお陰様で、先祖の尊い犠牲があったからこそ、今日の平和があると私は考えている。
戦争で夫を、父親を亡くし、そのために、残された家族はどんな思いをして戦後を生きてきたか。苦労は計り知れないし、戦争を悪とする考え方は当然である。私の亡き父、そして現存の母も同じ思いをして生きてきた世代である。その苦労話は、私も良く聞かされたし、その関係もあり、私自身、昔はリベラル思想の持ち主であった。しかし、1985年以降、大東亜戦争に関する秘密にされた公文書が公開され、そして、今日までに、次々と歴史の真実が明らかにされた。私は、その機会に触れることができ、大東亜戦争が引き起こされた背景には、ソ連コミンテルンなど、日本を米国と戦わせ、日本を貶めようとする者たちがおり、そして、戦争をせざるをえない状況にまで日本を追い詰めた左翼思想の者たちが背後にいたことを知り、「一方的な知識で自己の思想を支配していた」事実に目覚めた。とは言え、当時の日本の指導者たちも良くなかったことも事実ではある。その後、正しい日本の歴史を客観的に見つめることができるようになり、今では、保守の立場で活動をしている。

その活動の中で、毎年、靖國神社を昇殿参拝し、そして、今日の学校教育とは違った視点から歴史を学べる遊就館を見学するイベントを開催している。今年のテーマは「靖國神社と特攻隊」。特攻作戦から80年の今年、勇躍出撃され散華した特攻隊員たちの思いを、我々はどう受け止めて今日を生きていけば良いのだろうか。今の平和があるのは、日本国を、そして家族を、恋人を、故郷を護るために命を賭して戦ってくれた英霊のお陰様。先人に感謝しかないのである。そんな思いを胸に、英霊に感謝の誠を捧げるべく、イベントを開催する。
その内容と詳細、お申し込み方法などは以下のURLよりご覧いただきたい。
https://tamagawa-miraijuku.com/event.html

靖國神社は明治2(1869)年に東京招魂社として創建され、明治12年に現在の名称になり、今年で155年を迎えた。幕末の戊辰戦争以降、国のために戦死した246万余人の霊がまつられており、うち213万人が大東亜戦争の死者の霊である。その靖國神社をお支えしてきたのは、先の大戦で身内を亡くされた遺族の方々。しかし、元軍人の方々の大半は亡くなり、遺族の方々も少なくなってきた現状の中、これからの靖國神社をお支えするのは誰なのであろうか。

平成元(1989)年に刊行された『靖國神社創立百二十年記念特集』で、当時の松平永芳宮司、森田康之助崇敬者総代、高橋史郎明星大学助教授の鼎談の中で、松平宮司が以下のように語っている。
「私は就任した時から今日までそうなんですけど、靖國神社は政府のお金で維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならないんじゃないかと考えています。(中略)少額でもいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお蔭で自分たちの今日があり平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております」と。

「国民総氏子」という考え方。私はこの考え方に多く賛同をする。遺族の方々だけでなく、国民一人ひとりが「氏子」という思いで靖國神社を参拝し、お支えすることが必要であると思うのである。そのお支えできるためにある「崇敬奉賛会」という制度。当然、私も「靖國神社崇敬奉賛会」の会員である。

靖國神社崇敬奉賛会は、日本を愛してやまなかった英霊の弛まぬ努力と切なる想いを、
いついつまでも伝えていきたいと平成10年12月に設立された。靖國神社を大切に思う人々が会員として集い、「やすくにの心」を伝えるため、公開シンポジウム、勉強会・講演会、青少年健全育成事業、奉賛金奉納式英霊顕彰祭などのさまざまな活動を行っている。崇敬奉賛会の活動の目的は、日本人の「心の拠りどころ」である靖國神社の大切さを伝えていくこと、そして「やすくにの心」で日本をつなぎ、「日本らしさ」、「日本人らしさ」を取り戻すことにある。

来年は終戦80年の節目の年。これを機に、「崇敬奉賛会」の会員でない方は是非、会員となってもらいたいと思う。そして、「国民総氏子」の一人として、靖國神社をお支えするためにともに尽力していきたいと思う次第である。
2024.07.22 17:51 | 固定リンク | その他
終戦80年に向けて③~沖縄戦終結の日に思う
2024.06.23
今日は「沖縄戦終結の日」。

先ずは、沖縄戦で犠牲になられた全ての方々に、そして、沖縄を、日本国を護るために命を賭して沖縄の海に散華された特攻隊の方々に哀悼の誠を捧げたいと思います。

かつて、上皇陛下が皇太子時代、日本人が忘れてはならない4つの日として、沖縄戦終結の日(6月23日)、広島、長崎の原爆の日(8月6日と9日)、終戦の日(8月15日)を挙げ、「沖縄戦終結の日」はその中のひとつである。

開戦以来、進撃を続けていた日本軍は、昭和17年6月にミッドウェー海戦での敗北を境に徐々に後退することとなり、南太平洋上の数々の島嶼にあった基地も奪われることとなった。このため日本軍は、本土防衛の最後の拠点を沖縄とし、昭和19年3月に南西諸島に沖縄防衛のため、第32軍を創設。一方米軍は、本土攻撃の拠点を硫黄島・沖縄と定め、昭和19年10月には沖縄攻略を正式に決め(アイスバーグ作戦)、同年10月10日、まず沖縄本島に大規模な空襲を行なった。
昭和20年3月17日には硫黄島にあった日本軍守備隊が玉砕し、これにより米軍は、太平洋地区にあった全軍の戦力を沖縄攻略に向けて結集することなった。

沖縄戦では、沖縄の慶良間諸島に米軍が上陸した昭和20年3月26日から、日本軍司令官牛島満中将らが自決した沖縄本島での組織的戦闘が終結する6月23日まで、日本軍将兵と県民約18万8千人が亡くなった。
圧倒的兵力の米軍に、沖縄守備の日本軍は激しく抵抗し、神風特攻隊、陸軍特攻隊、人間魚雷回天、戦艦大和の特攻作戦、首里を巡る攻防と多大な住民の犠牲、学童疎開対馬丸の遭難、そして、県内の鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊など男女の中等学校生らも動員され、多くの若い命が散った。沖縄戦のこの語りきれない犠牲こそが、日本の存亡の危機から救ったという事実を心して記憶し続けていかなければならない。

日本国を、そして沖縄を護ろうと特攻作戦が開始されたのは、昭和19年10月。沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間列島に上陸した昭和20年3月26日から始まった。
特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということだ。重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという『必死』条件の作戦であった。

特攻作戦は、鹿児島県の知覧基地を始め、万世、鹿屋、または、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃している。
特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻作戦での戦死者は海軍2,531名、陸軍1,417名、計3,948名にものぼり、その中でも、知覧基地が本土最南端だったということもあり、439名と最も多く特攻作戦で戦死している。

1945年6月、沖縄の地下に掘られた洞穴で自決した、海軍司令官の大田實海軍中将の自決直前に海軍次官にあてた電文は、その沖縄戦の惨状と沖縄県民の献身をつづり、「後世特別の配慮を」と訴えている。その全文を記したい。

大田實司令官が出した電文
(旧海軍司令部壕ホームページより)
《原文》
062016番電
 発 沖縄根拠地隊司令官
 宛 海軍次官
 左ノ電■■次官ニ御通報方取計ヲ得度
 沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ 殆ド 顧ミルニ 暇ナカリキ
 然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下■■■風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ
 所詮 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ■■ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
 更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終止一貫
 勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ■■ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■
 一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ
(■は判読できず)

映画「永遠の0」の主人公、宮部久蔵が教官を務めるシーンの中で、「可」を出さない訓練兵のシーンがある。特攻に行かせたくない宮部久蔵の思いに、特攻作戦の方針を確認する会議の中で、上官に反対意見を述べた「美濃部正少佐」が重なった。
「美濃部正少佐」。特攻を拒否しつつ「特攻精神」で戦い抜いた指揮官である。
部下を守り、散華の美学ではなく、夜間攻撃に活路を見出し、最善と信じることを実行した指揮官の覚悟。
特攻作戦の方針を確認する会議の中で、美濃部少佐は上官に以下の反対意見を述べた。
「いまの若い搭乗員のなかに、死を恐れる者は誰もおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義がいります。しかも死にがいのある戦功をたてたいのは当然です。精神力一点張りの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。同じ死ぬなら、確算のある手段を講じていただきたい」と。
美濃部少佐は特攻作戦に活路を見出すのではなく、夜間攻撃に活路を見出していた。そして、その美濃部少佐が指揮する「芙蓉部隊」からは一機の特攻機も出させなかった。
美濃部少佐の他にも「特攻反対」を唱えた指揮官がいた。志賀淑雄少佐、岡嶋清熊少佐、野中五郎少佐、石橋輝志少佐。
彼らは「上官の命令は絶対」という厳しい軍隊という世界の中に身を置きながら、思考回路を失くしたロボットのように従うのではなく、冷静に状況を判断し、最善と信じることを、信念を持って発言し、実行した。彼らには「覚悟」が見える。

特攻作戦とは何だったかの。沖縄を護るため、日本国を護るための作戦であったが、それは今の我々に何を問いかけ、何を次代へと引き継げばよいのか。日本人の覚悟とは何なのか。

今年も「靖国神社昇殿参拝、遊就館見学」イベントを8/24(土)に靖国神社にて開催する。
講師は禰宜の松本聖吾総務部長。講演テーマは「靖国神社と特攻隊」。特攻作戦80年の今年、沖縄を、日本を護るために行ったあの作戦はどんなものだったのか、今一度、噛み締めたいと思う。

今日の日本の平和は、命を賭して戦ってくださった英霊のお陰様。尊い命の犠牲の上に成り立っている平和を心から有り難く、そして英霊に感謝しなくてはならない。今日は英霊に思いを馳せる一日だった。
2024.06.23 18:35 | 固定リンク | その他

TOP