終戦80年に向けて⑥~特攻の真意とは
2024.08.25
今年は特攻作戦から80年。この年に私は「何故、特攻がなされたのか」を追求すべく、色々な本を読みあさっているが、その中で、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀著=ノンフィクション作家、写真家)、そして『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』(角田和男著=零戦搭乗員・角田和男少尉〈のち中尉〉)の中に、特攻の真意があると感じている。

『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』は、著者による聞き書きをもとにして、そもそも特攻とは何か、大西中将の実像とはいかなるものだったのか、編まれている。
特攻の発想が生まれた経緯。そもそも特攻戦術を発案したのは大西中将ではなかったこと。大西中将がフィリピンに着任して特攻戦術の責任者として任命される前から、特攻戦術はすでに幾度も提案され試作機も作られていたこと。大西中将のフィリピン着任が、太平洋戦争で最後に残された戦局挽回の好機だったレイテ沖海戦の前だったこと。栗田艦隊のレイテ湾突入に際し、敵空母の甲板を使用不能にするため、特攻戦術の発動が要請されたことなど。それらの事実を著者は掘り起こし、丹念に関係者から聞き取ることで特攻や大西中将の実像を浮き彫りにしている。中でも戦時中、大西中将の副官として仕えた門司親徳氏と、特攻の戦果を見届けるのが役目の直掩機に長く搭乗し続けた角田和男氏からは、かなりの時間をかけてお話を伺ったようである。

門田隆将氏も薦めているという『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』は、ソロモンで、硫黄島上空で、決死の戦いを繰り広げ、ついには「必死」の特攻作戦に投入された零戦ベテラン・パイロット、角田和男中尉が綴る記録。
大東亜戦争における撃墜王で、昭和9(1934)年、海軍予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊したときの副長兼教頭が、当時大佐だった大西瀧治郎で、その後、中国大陸で戦ったときも、大西は連合航空隊司令官として角田氏の上官だった。その著書は、克明に記録された内容を元に綴られている。

その中で、先述の神立氏が、詳細に述べている箇所があるので引用し、記したい。

「昭和19年11月下旬、部下の特攻機を率いてフィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地に派遣されたさい、大西の右腕である第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐から聞かされた話である。角田はかつて、小田原から計器飛行を教わったことがあった。小田原は、『教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようと言うのに、黙っているわけにはいかない』と、大西から、『参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』と言われていたというその真意を話してくれたのだ。小田原大佐の語った大西中将の真意を、角田は克明に記録している」と。
そして、それは「これ(特攻によるレイテ防衛)は、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。敵に対してはあくまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておかねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員の後を追うであろう」。


時を経るにつれ、特攻の父と称される大西中将への誹謗は増し、エキセントリックなイメージが独り歩きするが、本書や他の戦史を読む限りでは、大西中将は、敗戦が濃厚になってもなお徹底交戦を唱え続け、果てには「二千万の将兵が特攻すべき」と主張し続けたことに「悪名高き大西中将」の理由がありそうである。しかし、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』を読む限りでは、大西中将がそのような言動に走ったのは内地に戻ってからのようで、特攻の責任者であったフィリピンでの在任時は、温厚で情のある中将でいた様子が伺える。
そして、大西中将が考えていた意志とは、フィリピンの戦いで太平洋戦争に終止符を打つ、ということであったという。「戦争はもはや、搭乗員自らが敵機に突入せねばならないところまできています。陛下、どうか戦争終結の御聖断を!」というのが大西中将の真意ではなかったのではないか。

そして、先程の大西中将の話を裏付ける記事がある。
昭和37年8月9日付の朝日新聞に掲載された、「最後の従軍」という連載記事で、その作者は作家の「山岡荘八」氏。従軍記者をしていた山岡氏は西田高光中尉の言葉である。これから出撃しようとしている西田中尉に「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのかどうか?」「もし負けても、悔いはないのか?」「今日の心理になるまでにどのような波があたのか?」など、厳しい質問をした中で、西田中尉は以下のように答えるのである。
「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなど思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです…おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに…」。
こうした証言は、命を賭して戦うことが、ゆくゆくの日本を担う礎となるであろうことを信じていたことだと、物語るものだと思うのである。

先人の想いを継ぐ我々は、この特攻作戦によって命を賭して戦った英霊の想いを継ぎ、これからの日本が良くなるために尽力しなければならないことが、使命である。そして、この特攻作戦で散華した英霊には、「今日の日本の平和があるのは、先人のおかげです、『ありがとうございます』」と感謝の誠を捧げるとともに、これからも、二度と戦争の悲劇が起こらないようにすることは言うまでもないが、戦争体験者が矢継ぎ早に鬼籍に入られる中、正しい歴史や、その真実を知る者が少なくなる中で、こうした現状を鑑みた時に、元軍人から直接聞いた者たちが、率先して誤った歴史が独り歩きしないよう、正しい歴史を次代へ語り継いでいくことが、とても大切であると思ってならない。そして、私もこれからの若者たちにその想いを繋いでいきたいと思う。
2024.08.25 13:14 | 固定リンク | その他
戦後79年目の夏~『神やぶれたまはず』より
2024.08.15
今年もまた、8月15日「敗戦の日」がやってきた。忘れてはならない4つの日の一つである。

「忘れてはならない4つの日」とは。
一つは6月23日「沖縄慰霊の日」
二つは8月6日の「広島原爆の日」
三つは8月9日「長崎原爆の日」
四つは8月15日の「終戦の日」
であり、上皇陛下はこの4つを「忘れてはならない日」として挙げている。

79年前のこの日、正午に昭和天皇による「終戦の詔書」は、ラジオで玉音放送が流れた。
その全文を以下に記したい。

【原文】
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ
朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ  他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ 朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海將兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庻ノ奉公 各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ 終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及 其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ 苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ 爲ニ大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

【現代語訳】
私(昭和天皇)は、世界の情勢と日本が置かれている状況とを深く考えあわせて、緊急の手段をもってこの事態を収めようと思い、私の忠良なる国民に告げる。
私は、わが日本政府をもって、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4か国に対し、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を通告させた。
そもそも、わが国民が平穏に、安らかに暮らせるように心がけ、世界が共に栄えて、その喜びを共有することは、歴代天皇が手本として遺してきた教えであり、私も常にその考えを持ち続けてきた。
アメリカとイギリスに宣戦を布告した理由も、日本の自存と東アジアの安定を心から願ったためであり、他国の主権を排除したり、領土を侵略するようなことは、私の意志とはまったくもって異なる。
この戦争がはじまり、すでに4年が経過した。その間も陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちは職務に励み、一億国民もそれぞれの職域で努力し、最善を尽くしたが、戦局は必ずしもわが方に好転したとは言えず、世界の情勢もまた日本にとって不利である。
それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を(広島、長崎で)使用し、罪なき人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知ることができない。
このような状況でなおも戦争を続ければ、わが日本民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。
そのようなことになれば、私はどうして我が子に等しい国民を守り、歴代天皇の御霊に謝ることができようか。
これこそが、私がポツダム宣言を受諾するようにした理由である。
ポツダム宣言の受諾に至って、私は、日本とともにアジア解放に協力した友好諸国に対して遺憾の意を表明しないわけにはいかない。
日本国民も、戦死したり、職場で殉職したり、不幸な運命で亡くなった人、またその遺族のことを考えると、悲しみで身も心も引き裂かれる思いだ。
戦争で負傷し、空襲などの戦災に見まわれて、家や仕事を失った人たちの生活を考えると、とても心配で胸を痛めている。
これから日本が受けるであろう苦難は、筆舌に尽くしがたいものであろう。国民みなの気持ちも、私はよくわかっている。
けれども私は、時の運命に導かれるまま、耐え難いことにも耐え、我慢ならないことにも我慢して、人類の未来のために平和の実現を計りたい。
私は、ここに国体を護ることができ、忠良なる国民の真心を信頼しつつ、常に国民と一緒にいる。
もし感情のままに、みだりに争いごとや問題を起こしたり、仲間同士で互いを陥れたり、時局を混乱させたりして、人が行うべき道を誤り、世界から信用を失うようなことになれば、それは私が最も戒めたいことだ。
全国民が家族のように一致団結し、この国を子孫に伝え、神国(日本)の不滅を固く信じて、国家の再建と繁栄の任務は重く、その道のりが遠いことを心に留め、持てる総ての力を将来の建設に注ぎ、道義心を大切にし、志を固く守って誓い、わが国の真価を発揮して、世界の発展に遅れをとらないよう努力しなければならない。
国民には、これが私の意志だと、よく理解して行動してほしい。


『神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午』(中央公論新社)の著書、長谷川三千子氏は、この8月15日を「昭和二十年八月のある一瞬-ほんの一瞬-日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコーストのたきぎの上に横たはつてゐたのである」と言う。
「モンテーニュとの対話 『随想録』を読みながら」の産経新聞社文化部で元雑誌正論編集長の桑原聡氏の言葉を借りるならば、《一国の歴史において、ある「特別の瞬間」というものが存在する。その瞬間の意味を知ることは、国の歴史全体を理解することであり、その瞬間を忘却することは、国の歴史全体を喪失することであると、長谷川さんは述べ、その瞬間をよみがえらせ、意味を問い、その答えを得ようとする。戦後日本人の根無し草的な生は、その瞬間を忘却しているからに他ならないからだ。「特別な瞬間」とは、玉音放送が流れた昭和20年8月15日正午のことである。21年生まれの長谷川さんは、「特別な瞬間」に立ち会い、鋭敏な感受性と知性でとらえた折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、太宰治、伊東静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫の言説を丹念に検証し、さらに旧約聖書の「イサク奉献」をめぐるジャック・デリダやキルケゴールの考察を取り上げて、神と人間の根本関係について思索を進める》と語る。
そして、《8月9日、ポツダム宣言受諾をめぐって閣僚会議が開催されるが結論は出ないその夜、御前会議が開かれ、天皇陛下のご判断を仰ぐこととなる。御前会議に同席していた内閣書記官長の迫水常久氏は天皇陛下のこのときのお言葉をこう伝えている。
「このまま戦争を本土で続ければ日本国は亡びる。日本国民は大勢死ぬ。日本国民を救い国を滅亡から救い、しかも世界の平和を、日本の平和を回復するには、ここで戦争を終結する他はないと思う。自分はどうなっても構わない」
かくして天皇陛下は、たきぎの上に横たわっている国民の隣にご自身を横たえたのだ。戦後の日本はそこから出発した。この「特別の瞬間」を忘却のふちからすくい上げ、きちんと意味づけることができない限り、われわれは精神のまひ状態から抜け出すことはできないだろう。》
さらに、
《昭和7年生まれの文芸評論家、桶谷秀昭さんは文庫判の解説にこんな言葉を寄せている。
「私は想像する、近い将来ではないが、いつか、八月十五日正午のあの瞬間が、ノスタルジイとして共有されるとき、戦後日本は決定的な精神の変革をもつであらう。そのとき、あの『あの瞬間』の記憶は、保田與重郎(よじゅうろう)風に言へば、『偉大なる敗北』となるであらう」
『いつか』とは、いったいいつのことだろう。モンテーニュは言っている。
『いつかできることはすべて、今日もできる』》。

今年も、当時の「あのシーンとした国民の心の一瞬」に思いを馳せ、英霊に対し感謝の誠を捧げ、今一度、今日命あるありがたみを感じていきたいと思う。
2024.08.15 07:52 | 固定リンク | その他
特攻作戦から80年「次代へ繋ぐ 特攻隊員の想い」トークライブのお知らせ
2024.08.10
昭和から平成、令和と時代が移り、戦後生まれの人口が全体の8割を超えました。
戦地に赴いた元軍人の方々が次々と鬼籍に入られ、戦争体験者、そしてご遺族をも急速に減っている中、戦争が「記憶」から「歴史」へと変わりつつあります。
今日の平和があるのは間違いなく、先の大戦で命を賭して戦ってくださった英霊のお陰様。先祖の尊い犠牲があったからこそ今日の平和があるのです。
我が国を護るために敢行され、「必ず死ぬこと」が定められた「必死」条件の特攻作戦から今年で80年。そして、来年は終戦80年の節目を迎えます。先の大戦で敢行された「必死」の特攻作戦から今を生きる我々は何を受け継ぐべきなのか。そして、命を賭して戦ってくださった特攻隊員たちの想いを我々はどう受け止めて生きていけばよいのだろうか。
国のために尊い命をささげた先人を弔い、戦没者慰霊の中心施設である靖國神社に昇殿参拝し、英霊に感謝の誠を捧げるとともに、心から平和を祈ること、そして、次代へと英霊の思いを繋ぐことを目的に、以下の内容でイベントを実施いたします。

【日 時】 令和6年9月23日(月・振休)
12時00分 受付開始(参集殿にお越しください)
13時00分 昇殿参拝(参拝後、啓照館へと移動します)
13時30分 「次代へ繋ぐ 特攻隊員の想い」トークライブ(約100分)

【会  場】靖國神社参集殿、啓照館

【登 壇 者】柿崎ゆうじ氏(カートコーポレイトグループ代表取締役会長・映画監督)
      上島嘉郎氏(ジャーナリスト・雑誌「正論」元編集長)
【ファシリテーター】葛城奈海氏(ジャーナリスト)

【定  員】200名

【入 場 料】4,000円(税込み、玉串料含む) ※会員は無料

【申込方法】下記URLの専用申込フォームから、お申し込みください
 ⇒ http://d.quel.jp/10917993

※ 申込み後にお送りいたします「入場予約券」に、入場料の振込方法等を記載しておりますので、ご確認の上、事前にお振込みください。
※ 当日は、受付にて「入場予約券」をご提示ください。「入場券」「当日資料」を渡しします。

【主催・連絡先】寺子屋「玉川未来塾」 代表 玉川博一
        〒196-0022 昭島市中神町1136-19
      TEL 090-7224-3490/ E-mail tamagawamiraijuku@gmail.com

登壇者のお話を伺い、心の奥底に刻み込みたいと思います。
皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。



2024.08.10 09:31 | 固定リンク | イベント
終戦80年に向けて⑤~『大東亜戦争の道』を再読して
2024.08.09
本日は、長崎に原爆が投下された日。上皇陛下が「日本人として忘れてはならない4つの日」のうちの1つ。
広島に落とされた原爆はウランを用いた小型「リトルボーイ」に対し、長崎はプルトニウムを用いた太めの「ファットマン」。米国はタイプの違う2種類の原爆を日本に投下した。「ファットマン」は「リトルボーイ」の約80倍の威力だという。タイプの違う原爆を投下し、大量の民間人を殺した、この国際法を無視した無差別殺人を我々は決して忘れてはならない。
また、この日はソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州、北鮮、樺太、アリューシャンへの侵攻を開始した日でもある。国際法を無視した、この屈辱なる出来事も決して忘れてはならないことである。

毎年、この時期になると、考える。「あの戦争は何だったのか」と。

今までにも、色々な書籍や雑誌、講演などを見聞きし、色々な考え方を得てきたのだが、やはり、平成二年十二月八日第一刷発行、中村粲著『大東亜戦争への道』に戻り、その論考が、私の心の的を得て、外さない。

「大東亜戦争とは何だったのか―。侵略戦争史観が世を風靡する中で、真面目なる多くの国民が心のどこかに抱き続けてきたに違いないこの疑問に対して、本書は一箇の新しい視点と解釈を提供せんとするものである。戦後の滔々たる自虐史観の風潮の中で、依然として東京裁判判決を盲信し、あの戦争の原因責任ともに日本にありとして、祖国の過誤失点のみを内外に揚言して時を得顔なる学者・言論人が少なくない。彼等の筆になる歴史書・歴史教科書また日本の歴史を出来るだけ醜悪に描くことを以て進歩的なりと自負するかの如くである。筆者は、戦争には多くの場合、複雑な史的背景と原因がありと信ずるが故に、斯かる一方的な日本断罪史観を認め得ないのである。戦争は多くの些細な累積因の上に発生するものだ。歴史の中には、他日戦争を導くことになる禍根が随所に散在する。それら一つ一つが戦争と平和への道を分けてきたと云へるだろう。そのやうな戦争と平和の分岐点が何処にあったのか―この小著はかかる問題を考察しつつ、いわばマクロ的見地から大東亜戦争の意味について思索を促すことを意図とするものである。(中略)かと云って、大東亜戦争を実際以上に美化するものでない―――」と。

600ページ以上にもわたるこの著書は、歴史的な客観的な細かな事実の積み重ねによって分析されており、そして、「大東亜戦争」とは、以下の二大底流の合する所に生起せる戦争として叙述する。
①門戸開放主義をめぐる日米抗争=東亜をめぐる日本の現実的要求と米国の観念的道徳主義的主張との衝突
②共産主義との戦い=ロシア革命以後の共産主義防遏の戦い

「あの戦争で多大な血が流され、命が失われ、財産が無となった。そして、破れたことによって、明治維新以来の先人達の努力が水泡に帰したことも事実である。だが、結果論的に敗れた戦争を裁断するのではなく、戦争に至った明治以来の歴史の流れを、当時の人々の心を我が心として振返る時、あの戦争を『愚かな戦争』と傍観者的に冷笑することはできない。それは、歴史を担った誠実なる人々に対する冒涜のやうに思われるのだ。『破滅への道』を願った日本人は一人も居なかった筈だ。誤算を不誠実と混同してはならぬ。歴史は皮肉であり、気紛れであり、また過酷である。(中略)ともあれ、敗れた日本だけを断罪するには、大東亜戦争は余りに複雑で巨大な歴史を背負ってゐた」。

戦後日本人の歴史認識を深く汚染する、東京裁判史観。この「東京裁判史観」に毒された「自虐史観」に染まる日本人も少なくない。しかし、いつまでこの「東京裁判史観」に毒されなくてはいけないのか。上記の中村粲氏が言うように、片方の一方的な理由で戦争が始まった訳ではない。しかも、民間人を大量に殺されているにもかかわらず。広島市の平和公園にある原爆慰霊碑「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と何故、刻まれなければならないのか。

今もなお、東京裁判史観に毒された日本人に目を覚まして欲しいとの思いで、今年もまた「靖国神社昇殿参拝、遊就館見学」イベントを8/24(土)に開催する。
https://www.tamagawa-miraijuku.com/event.html
反日左翼、リベラルの連中が何て言おうと、先の大戦で命を賭して戦ってくださった英霊のお陰で今日の日本の平和がある。本殿にて昇殿参拝して英霊に感謝の誠を捧げ、靖国神社職員のお話を聞き、そして遊就館を拝観して、学校教育では知ることの出来ない歴史の真実に触れていただきたいと思う。

本日は、長崎での原爆投下によってお亡くなりになられたすべての御霊のご冥福をお祈りさせていただき、心静かに手を合わせ、鎮魂の誠を捧げたいと思う。
2024.08.09 07:52 | 固定リンク | 未分類

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