戦後79年目の夏~『神やぶれたまはず』より
2024.08.15
今年もまた、8月15日「敗戦の日」がやってきた。忘れてはならない4つの日の一つである。
「忘れてはならない4つの日」とは。
一つは6月23日「沖縄慰霊の日」
二つは8月6日の「広島原爆の日」
三つは8月9日「長崎原爆の日」
四つは8月15日の「終戦の日」
であり、上皇陛下はこの4つを「忘れてはならない日」として挙げている。
79年前のこの日、正午に昭和天皇による「終戦の詔書」は、ラジオで玉音放送が流れた。
その全文を以下に記したい。
【原文】
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ
朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ 他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ 朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海將兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庻ノ奉公 各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ 終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及 其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ 苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ 爲ニ大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
【現代語訳】
私(昭和天皇)は、世界の情勢と日本が置かれている状況とを深く考えあわせて、緊急の手段をもってこの事態を収めようと思い、私の忠良なる国民に告げる。
私は、わが日本政府をもって、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4か国に対し、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を通告させた。
そもそも、わが国民が平穏に、安らかに暮らせるように心がけ、世界が共に栄えて、その喜びを共有することは、歴代天皇が手本として遺してきた教えであり、私も常にその考えを持ち続けてきた。
アメリカとイギリスに宣戦を布告した理由も、日本の自存と東アジアの安定を心から願ったためであり、他国の主権を排除したり、領土を侵略するようなことは、私の意志とはまったくもって異なる。
この戦争がはじまり、すでに4年が経過した。その間も陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちは職務に励み、一億国民もそれぞれの職域で努力し、最善を尽くしたが、戦局は必ずしもわが方に好転したとは言えず、世界の情勢もまた日本にとって不利である。
それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を(広島、長崎で)使用し、罪なき人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知ることができない。
このような状況でなおも戦争を続ければ、わが日本民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。
そのようなことになれば、私はどうして我が子に等しい国民を守り、歴代天皇の御霊に謝ることができようか。
これこそが、私がポツダム宣言を受諾するようにした理由である。
ポツダム宣言の受諾に至って、私は、日本とともにアジア解放に協力した友好諸国に対して遺憾の意を表明しないわけにはいかない。
日本国民も、戦死したり、職場で殉職したり、不幸な運命で亡くなった人、またその遺族のことを考えると、悲しみで身も心も引き裂かれる思いだ。
戦争で負傷し、空襲などの戦災に見まわれて、家や仕事を失った人たちの生活を考えると、とても心配で胸を痛めている。
これから日本が受けるであろう苦難は、筆舌に尽くしがたいものであろう。国民みなの気持ちも、私はよくわかっている。
けれども私は、時の運命に導かれるまま、耐え難いことにも耐え、我慢ならないことにも我慢して、人類の未来のために平和の実現を計りたい。
私は、ここに国体を護ることができ、忠良なる国民の真心を信頼しつつ、常に国民と一緒にいる。
もし感情のままに、みだりに争いごとや問題を起こしたり、仲間同士で互いを陥れたり、時局を混乱させたりして、人が行うべき道を誤り、世界から信用を失うようなことになれば、それは私が最も戒めたいことだ。
全国民が家族のように一致団結し、この国を子孫に伝え、神国(日本)の不滅を固く信じて、国家の再建と繁栄の任務は重く、その道のりが遠いことを心に留め、持てる総ての力を将来の建設に注ぎ、道義心を大切にし、志を固く守って誓い、わが国の真価を発揮して、世界の発展に遅れをとらないよう努力しなければならない。
国民には、これが私の意志だと、よく理解して行動してほしい。
『神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午』(中央公論新社)の著書、長谷川三千子氏は、この8月15日を「昭和二十年八月のある一瞬-ほんの一瞬-日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコーストのたきぎの上に横たはつてゐたのである」と言う。
「モンテーニュとの対話 『随想録』を読みながら」の産経新聞社文化部で元雑誌正論編集長の桑原聡氏の言葉を借りるならば、《一国の歴史において、ある「特別の瞬間」というものが存在する。その瞬間の意味を知ることは、国の歴史全体を理解することであり、その瞬間を忘却することは、国の歴史全体を喪失することであると、長谷川さんは述べ、その瞬間をよみがえらせ、意味を問い、その答えを得ようとする。戦後日本人の根無し草的な生は、その瞬間を忘却しているからに他ならないからだ。「特別な瞬間」とは、玉音放送が流れた昭和20年8月15日正午のことである。21年生まれの長谷川さんは、「特別な瞬間」に立ち会い、鋭敏な感受性と知性でとらえた折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、太宰治、伊東静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫の言説を丹念に検証し、さらに旧約聖書の「イサク奉献」をめぐるジャック・デリダやキルケゴールの考察を取り上げて、神と人間の根本関係について思索を進める》と語る。
そして、《8月9日、ポツダム宣言受諾をめぐって閣僚会議が開催されるが結論は出ないその夜、御前会議が開かれ、天皇陛下のご判断を仰ぐこととなる。御前会議に同席していた内閣書記官長の迫水常久氏は天皇陛下のこのときのお言葉をこう伝えている。
「このまま戦争を本土で続ければ日本国は亡びる。日本国民は大勢死ぬ。日本国民を救い国を滅亡から救い、しかも世界の平和を、日本の平和を回復するには、ここで戦争を終結する他はないと思う。自分はどうなっても構わない」
かくして天皇陛下は、たきぎの上に横たわっている国民の隣にご自身を横たえたのだ。戦後の日本はそこから出発した。この「特別の瞬間」を忘却のふちからすくい上げ、きちんと意味づけることができない限り、われわれは精神のまひ状態から抜け出すことはできないだろう。》
さらに、
《昭和7年生まれの文芸評論家、桶谷秀昭さんは文庫判の解説にこんな言葉を寄せている。
「私は想像する、近い将来ではないが、いつか、八月十五日正午のあの瞬間が、ノスタルジイとして共有されるとき、戦後日本は決定的な精神の変革をもつであらう。そのとき、あの『あの瞬間』の記憶は、保田與重郎(よじゅうろう)風に言へば、『偉大なる敗北』となるであらう」
『いつか』とは、いったいいつのことだろう。モンテーニュは言っている。
『いつかできることはすべて、今日もできる』》。
今年も、当時の「あのシーンとした国民の心の一瞬」に思いを馳せ、英霊に対し感謝の誠を捧げ、今一度、今日命あるありがたみを感じていきたいと思う。
「忘れてはならない4つの日」とは。
一つは6月23日「沖縄慰霊の日」
二つは8月6日の「広島原爆の日」
三つは8月9日「長崎原爆の日」
四つは8月15日の「終戦の日」
であり、上皇陛下はこの4つを「忘れてはならない日」として挙げている。
79年前のこの日、正午に昭和天皇による「終戦の詔書」は、ラジオで玉音放送が流れた。
その全文を以下に記したい。
【原文】
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ
朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ 他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ 朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海將兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庻ノ奉公 各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ 終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及 其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ 苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ 爲ニ大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
【現代語訳】
私(昭和天皇)は、世界の情勢と日本が置かれている状況とを深く考えあわせて、緊急の手段をもってこの事態を収めようと思い、私の忠良なる国民に告げる。
私は、わが日本政府をもって、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4か国に対し、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を通告させた。
そもそも、わが国民が平穏に、安らかに暮らせるように心がけ、世界が共に栄えて、その喜びを共有することは、歴代天皇が手本として遺してきた教えであり、私も常にその考えを持ち続けてきた。
アメリカとイギリスに宣戦を布告した理由も、日本の自存と東アジアの安定を心から願ったためであり、他国の主権を排除したり、領土を侵略するようなことは、私の意志とはまったくもって異なる。
この戦争がはじまり、すでに4年が経過した。その間も陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちは職務に励み、一億国民もそれぞれの職域で努力し、最善を尽くしたが、戦局は必ずしもわが方に好転したとは言えず、世界の情勢もまた日本にとって不利である。
それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を(広島、長崎で)使用し、罪なき人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知ることができない。
このような状況でなおも戦争を続ければ、わが日本民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。
そのようなことになれば、私はどうして我が子に等しい国民を守り、歴代天皇の御霊に謝ることができようか。
これこそが、私がポツダム宣言を受諾するようにした理由である。
ポツダム宣言の受諾に至って、私は、日本とともにアジア解放に協力した友好諸国に対して遺憾の意を表明しないわけにはいかない。
日本国民も、戦死したり、職場で殉職したり、不幸な運命で亡くなった人、またその遺族のことを考えると、悲しみで身も心も引き裂かれる思いだ。
戦争で負傷し、空襲などの戦災に見まわれて、家や仕事を失った人たちの生活を考えると、とても心配で胸を痛めている。
これから日本が受けるであろう苦難は、筆舌に尽くしがたいものであろう。国民みなの気持ちも、私はよくわかっている。
けれども私は、時の運命に導かれるまま、耐え難いことにも耐え、我慢ならないことにも我慢して、人類の未来のために平和の実現を計りたい。
私は、ここに国体を護ることができ、忠良なる国民の真心を信頼しつつ、常に国民と一緒にいる。
もし感情のままに、みだりに争いごとや問題を起こしたり、仲間同士で互いを陥れたり、時局を混乱させたりして、人が行うべき道を誤り、世界から信用を失うようなことになれば、それは私が最も戒めたいことだ。
全国民が家族のように一致団結し、この国を子孫に伝え、神国(日本)の不滅を固く信じて、国家の再建と繁栄の任務は重く、その道のりが遠いことを心に留め、持てる総ての力を将来の建設に注ぎ、道義心を大切にし、志を固く守って誓い、わが国の真価を発揮して、世界の発展に遅れをとらないよう努力しなければならない。
国民には、これが私の意志だと、よく理解して行動してほしい。
『神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午』(中央公論新社)の著書、長谷川三千子氏は、この8月15日を「昭和二十年八月のある一瞬-ほんの一瞬-日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコーストのたきぎの上に横たはつてゐたのである」と言う。
「モンテーニュとの対話 『随想録』を読みながら」の産経新聞社文化部で元雑誌正論編集長の桑原聡氏の言葉を借りるならば、《一国の歴史において、ある「特別の瞬間」というものが存在する。その瞬間の意味を知ることは、国の歴史全体を理解することであり、その瞬間を忘却することは、国の歴史全体を喪失することであると、長谷川さんは述べ、その瞬間をよみがえらせ、意味を問い、その答えを得ようとする。戦後日本人の根無し草的な生は、その瞬間を忘却しているからに他ならないからだ。「特別な瞬間」とは、玉音放送が流れた昭和20年8月15日正午のことである。21年生まれの長谷川さんは、「特別な瞬間」に立ち会い、鋭敏な感受性と知性でとらえた折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、太宰治、伊東静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫の言説を丹念に検証し、さらに旧約聖書の「イサク奉献」をめぐるジャック・デリダやキルケゴールの考察を取り上げて、神と人間の根本関係について思索を進める》と語る。
そして、《8月9日、ポツダム宣言受諾をめぐって閣僚会議が開催されるが結論は出ないその夜、御前会議が開かれ、天皇陛下のご判断を仰ぐこととなる。御前会議に同席していた内閣書記官長の迫水常久氏は天皇陛下のこのときのお言葉をこう伝えている。
「このまま戦争を本土で続ければ日本国は亡びる。日本国民は大勢死ぬ。日本国民を救い国を滅亡から救い、しかも世界の平和を、日本の平和を回復するには、ここで戦争を終結する他はないと思う。自分はどうなっても構わない」
かくして天皇陛下は、たきぎの上に横たわっている国民の隣にご自身を横たえたのだ。戦後の日本はそこから出発した。この「特別の瞬間」を忘却のふちからすくい上げ、きちんと意味づけることができない限り、われわれは精神のまひ状態から抜け出すことはできないだろう。》
さらに、
《昭和7年生まれの文芸評論家、桶谷秀昭さんは文庫判の解説にこんな言葉を寄せている。
「私は想像する、近い将来ではないが、いつか、八月十五日正午のあの瞬間が、ノスタルジイとして共有されるとき、戦後日本は決定的な精神の変革をもつであらう。そのとき、あの『あの瞬間』の記憶は、保田與重郎(よじゅうろう)風に言へば、『偉大なる敗北』となるであらう」
『いつか』とは、いったいいつのことだろう。モンテーニュは言っている。
『いつかできることはすべて、今日もできる』》。
今年も、当時の「あのシーンとした国民の心の一瞬」に思いを馳せ、英霊に対し感謝の誠を捧げ、今一度、今日命あるありがたみを感じていきたいと思う。