終戦80年に向けて⑨~復興を担った世代の想いを胸に
2024.12.25
12月25日(水)産経WESTで「大東亜戦争を戦い、復興を担った世代が消えていく 来年の戦後80年で感謝の国会決議を」の記事を拝見したので、紹介したい。
※詳しくは以下のURLより。
https://www.sankei.com/article/20241225-4ILNU2KJJBLX7BKPHQ4OCRBM6Y/
「『今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません』
今年の『終戦の日』(8月15日)の全国戦没者追悼式で、岸田文雄首相(当時)が述べた式辞の一節だ。大東亜戦争の戦没者を追悼する行事ではこのように、戦後日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれたものであるとし、戦没者に敬意と感謝の念を表することが決まり事のようになっている(「平和」については諸論あろうが、とりあえずおいておく)。
命と引き換えに、親兄弟、妻や恋人たちを、郷土を、そして祖国を守る。そうした至純の思いにあふれた帝国陸海軍の『特別攻撃』(特攻)隊員たちの遺書を読めば、戦没者への敬意や感謝は自然と湧き上がってくる。彼らによって生かされていることが実感され、彼らの分も精いっぱい生きようという思いになる。
特攻隊員たちだけでなく、他の兵士たちの思いも『死への覚悟』があるかどうかは別として、同様に家族や祖国を守りたい、というものだっただろう。
そんな戦没者への感謝や敬意を表することには、なんの異論もない。一方で、何かが抜け落ちているような気がしてならなかったのだが、それが何かに気付いた。戦没者の思いを直接見聞きし、『平和で繁栄した祖国を』という戦没者の願いを実際にかなえた同世代の人たちのことだ。実際に、日本を焼け野原から復興させて世界有数の経済大国にしたのは残された彼らである。
1944年のレイテ沖海戦に参加した元海軍中尉の加藤昇氏=当時(97)=が令和2年に亡くなる前年の講演を聞いたことがある。終戦間際には一時、特攻出撃を待つ身となった加藤氏は『(特攻出撃を控え)隣のベッドで同期が童謡〈ふるさと〉を小さな声で歌っていたのが忘れられない』と振り返り、『出撃する同期から〈後を頼む〉といわれた。私が戦後生まれの皆さんにお願いしたいのは先祖を大事にし、日本を頼むということです』と参加者に語りかけていた。
軍人・兵士にとって、戦友との約束は死ぬまで忘れられないものだった。それが、日本復興の原動力になったのではあるまいか」(中略)。
我々の今日の平和は、こうした尊い犠牲の上に成り立っているにも関わらず、その事実ですら断罪し、そして、「あの戦争は悪いことだ」というレッテルを貼り、論点をそらそうとする議論が多い。確かに戦争は行ってはならないし、私も戦争反対である。しかし、あの時代、命を賭して戦った若者たちがいた事実をないがしろにして良いことではない。
平気で人を殺める犯罪が増えている昨今、また、罪を犯しているにも関わらず、平気で逃走する者がいる、そんな現代社会を憂う今日において、私は、他人を思う気持ちが足りなくなった人が多くなったように感じている。
しかし、あの大戦時、しかも必死の特攻作戦のため、生きたくても生きられなかった人たちがいた。公のために尽くし、家族のため、愛する恋人のために、戦ってくださったその先人たちの思いを感じなければならない。そして、私の中でその思いは、日増しに強くなっている。
私が産経新聞社勤務時代に手掛けた「大東亜戦争を語り継ぐ会」に登壇いただいた元軍人の方々は、皆、鬼籍に入られた。実際に先の大戦を戦った世代が消えつつあるということである。それは、彼らの戦友たちはもちろんのこと、周囲の人たち、戦没者の遺志を継ぎ、戦後を生き残り、復興を実現した人たちも消えつつあるということだ。
先人の思いを繋ぐこと。それは、先人から直に話を聞いた者たちの責務なのではないだろうか。「あとは頼む」と日本の将来を次代に託した先人の想い。そして、私自身、先人の話を直に聞いた者として、先人の想いを伝えていけるよう、来年も尽力したいと思っている。
来年は終戦80年。とても大事な年だと位置づけており、その年に相応しいイベントをまた企画してお届けしたいと思う。
今年も一年、私の拙い内容のブログをご覧いただきました皆様、誠にありがとうございます。心から感謝申し上げます。
ブログは本日で筆納めといたします。
来年も、己の心の思いのまま、綴って参りたいと思います。
また来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
そして、皆様、良いお年をお迎えください。
※詳しくは以下のURLより。
https://www.sankei.com/article/20241225-4ILNU2KJJBLX7BKPHQ4OCRBM6Y/
「『今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません』
今年の『終戦の日』(8月15日)の全国戦没者追悼式で、岸田文雄首相(当時)が述べた式辞の一節だ。大東亜戦争の戦没者を追悼する行事ではこのように、戦後日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれたものであるとし、戦没者に敬意と感謝の念を表することが決まり事のようになっている(「平和」については諸論あろうが、とりあえずおいておく)。
命と引き換えに、親兄弟、妻や恋人たちを、郷土を、そして祖国を守る。そうした至純の思いにあふれた帝国陸海軍の『特別攻撃』(特攻)隊員たちの遺書を読めば、戦没者への敬意や感謝は自然と湧き上がってくる。彼らによって生かされていることが実感され、彼らの分も精いっぱい生きようという思いになる。
特攻隊員たちだけでなく、他の兵士たちの思いも『死への覚悟』があるかどうかは別として、同様に家族や祖国を守りたい、というものだっただろう。
そんな戦没者への感謝や敬意を表することには、なんの異論もない。一方で、何かが抜け落ちているような気がしてならなかったのだが、それが何かに気付いた。戦没者の思いを直接見聞きし、『平和で繁栄した祖国を』という戦没者の願いを実際にかなえた同世代の人たちのことだ。実際に、日本を焼け野原から復興させて世界有数の経済大国にしたのは残された彼らである。
1944年のレイテ沖海戦に参加した元海軍中尉の加藤昇氏=当時(97)=が令和2年に亡くなる前年の講演を聞いたことがある。終戦間際には一時、特攻出撃を待つ身となった加藤氏は『(特攻出撃を控え)隣のベッドで同期が童謡〈ふるさと〉を小さな声で歌っていたのが忘れられない』と振り返り、『出撃する同期から〈後を頼む〉といわれた。私が戦後生まれの皆さんにお願いしたいのは先祖を大事にし、日本を頼むということです』と参加者に語りかけていた。
軍人・兵士にとって、戦友との約束は死ぬまで忘れられないものだった。それが、日本復興の原動力になったのではあるまいか」(中略)。
我々の今日の平和は、こうした尊い犠牲の上に成り立っているにも関わらず、その事実ですら断罪し、そして、「あの戦争は悪いことだ」というレッテルを貼り、論点をそらそうとする議論が多い。確かに戦争は行ってはならないし、私も戦争反対である。しかし、あの時代、命を賭して戦った若者たちがいた事実をないがしろにして良いことではない。
平気で人を殺める犯罪が増えている昨今、また、罪を犯しているにも関わらず、平気で逃走する者がいる、そんな現代社会を憂う今日において、私は、他人を思う気持ちが足りなくなった人が多くなったように感じている。
しかし、あの大戦時、しかも必死の特攻作戦のため、生きたくても生きられなかった人たちがいた。公のために尽くし、家族のため、愛する恋人のために、戦ってくださったその先人たちの思いを感じなければならない。そして、私の中でその思いは、日増しに強くなっている。
私が産経新聞社勤務時代に手掛けた「大東亜戦争を語り継ぐ会」に登壇いただいた元軍人の方々は、皆、鬼籍に入られた。実際に先の大戦を戦った世代が消えつつあるということである。それは、彼らの戦友たちはもちろんのこと、周囲の人たち、戦没者の遺志を継ぎ、戦後を生き残り、復興を実現した人たちも消えつつあるということだ。
先人の思いを繋ぐこと。それは、先人から直に話を聞いた者たちの責務なのではないだろうか。「あとは頼む」と日本の将来を次代に託した先人の想い。そして、私自身、先人の話を直に聞いた者として、先人の想いを伝えていけるよう、来年も尽力したいと思っている。
来年は終戦80年。とても大事な年だと位置づけており、その年に相応しいイベントをまた企画してお届けしたいと思う。
今年も一年、私の拙い内容のブログをご覧いただきました皆様、誠にありがとうございます。心から感謝申し上げます。
ブログは本日で筆納めといたします。
来年も、己の心の思いのまま、綴って参りたいと思います。
また来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
そして、皆様、良いお年をお迎えください。