終戦80年に向けて⑨~復興を担った世代の想いを胸に
2024.12.25
12月25日(水)産経WESTで「大東亜戦争を戦い、復興を担った世代が消えていく 来年の戦後80年で感謝の国会決議を」の記事を拝見したので、紹介したい。
※詳しくは以下のURLより。
https://www.sankei.com/article/20241225-4ILNU2KJJBLX7BKPHQ4OCRBM6Y/
「『今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません』
今年の『終戦の日』(8月15日)の全国戦没者追悼式で、岸田文雄首相(当時)が述べた式辞の一節だ。大東亜戦争の戦没者を追悼する行事ではこのように、戦後日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれたものであるとし、戦没者に敬意と感謝の念を表することが決まり事のようになっている(「平和」については諸論あろうが、とりあえずおいておく)。
命と引き換えに、親兄弟、妻や恋人たちを、郷土を、そして祖国を守る。そうした至純の思いにあふれた帝国陸海軍の『特別攻撃』(特攻)隊員たちの遺書を読めば、戦没者への敬意や感謝は自然と湧き上がってくる。彼らによって生かされていることが実感され、彼らの分も精いっぱい生きようという思いになる。
特攻隊員たちだけでなく、他の兵士たちの思いも『死への覚悟』があるかどうかは別として、同様に家族や祖国を守りたい、というものだっただろう。
そんな戦没者への感謝や敬意を表することには、なんの異論もない。一方で、何かが抜け落ちているような気がしてならなかったのだが、それが何かに気付いた。戦没者の思いを直接見聞きし、『平和で繁栄した祖国を』という戦没者の願いを実際にかなえた同世代の人たちのことだ。実際に、日本を焼け野原から復興させて世界有数の経済大国にしたのは残された彼らである。
1944年のレイテ沖海戦に参加した元海軍中尉の加藤昇氏=当時(97)=が令和2年に亡くなる前年の講演を聞いたことがある。終戦間際には一時、特攻出撃を待つ身となった加藤氏は『(特攻出撃を控え)隣のベッドで同期が童謡〈ふるさと〉を小さな声で歌っていたのが忘れられない』と振り返り、『出撃する同期から〈後を頼む〉といわれた。私が戦後生まれの皆さんにお願いしたいのは先祖を大事にし、日本を頼むということです』と参加者に語りかけていた。
軍人・兵士にとって、戦友との約束は死ぬまで忘れられないものだった。それが、日本復興の原動力になったのではあるまいか」(中略)。
我々の今日の平和は、こうした尊い犠牲の上に成り立っているにも関わらず、その事実ですら断罪し、そして、「あの戦争は悪いことだ」というレッテルを貼り、論点をそらそうとする議論が多い。確かに戦争は行ってはならないし、私も戦争反対である。しかし、あの時代、命を賭して戦った若者たちがいた事実をないがしろにして良いことではない。
平気で人を殺める犯罪が増えている昨今、また、罪を犯しているにも関わらず、平気で逃走する者がいる、そんな現代社会を憂う今日において、私は、他人を思う気持ちが足りなくなった人が多くなったように感じている。
しかし、あの大戦時、しかも必死の特攻作戦のため、生きたくても生きられなかった人たちがいた。公のために尽くし、家族のため、愛する恋人のために、戦ってくださったその先人たちの思いを感じなければならない。そして、私の中でその思いは、日増しに強くなっている。
私が産経新聞社勤務時代に手掛けた「大東亜戦争を語り継ぐ会」に登壇いただいた元軍人の方々は、皆、鬼籍に入られた。実際に先の大戦を戦った世代が消えつつあるということである。それは、彼らの戦友たちはもちろんのこと、周囲の人たち、戦没者の遺志を継ぎ、戦後を生き残り、復興を実現した人たちも消えつつあるということだ。
先人の思いを繋ぐこと。それは、先人から直に話を聞いた者たちの責務なのではないだろうか。「あとは頼む」と日本の将来を次代に託した先人の想い。そして、私自身、先人の話を直に聞いた者として、先人の想いを伝えていけるよう、来年も尽力したいと思っている。
来年は終戦80年。とても大事な年だと位置づけており、その年に相応しいイベントをまた企画してお届けしたいと思う。
今年も一年、私の拙い内容のブログをご覧いただきました皆様、誠にありがとうございます。心から感謝申し上げます。
ブログは本日で筆納めといたします。
来年も、己の心の思いのまま、綴って参りたいと思います。
また来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
そして、皆様、良いお年をお迎えください。
※詳しくは以下のURLより。
https://www.sankei.com/article/20241225-4ILNU2KJJBLX7BKPHQ4OCRBM6Y/
「『今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません』
今年の『終戦の日』(8月15日)の全国戦没者追悼式で、岸田文雄首相(当時)が述べた式辞の一節だ。大東亜戦争の戦没者を追悼する行事ではこのように、戦後日本の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれたものであるとし、戦没者に敬意と感謝の念を表することが決まり事のようになっている(「平和」については諸論あろうが、とりあえずおいておく)。
命と引き換えに、親兄弟、妻や恋人たちを、郷土を、そして祖国を守る。そうした至純の思いにあふれた帝国陸海軍の『特別攻撃』(特攻)隊員たちの遺書を読めば、戦没者への敬意や感謝は自然と湧き上がってくる。彼らによって生かされていることが実感され、彼らの分も精いっぱい生きようという思いになる。
特攻隊員たちだけでなく、他の兵士たちの思いも『死への覚悟』があるかどうかは別として、同様に家族や祖国を守りたい、というものだっただろう。
そんな戦没者への感謝や敬意を表することには、なんの異論もない。一方で、何かが抜け落ちているような気がしてならなかったのだが、それが何かに気付いた。戦没者の思いを直接見聞きし、『平和で繁栄した祖国を』という戦没者の願いを実際にかなえた同世代の人たちのことだ。実際に、日本を焼け野原から復興させて世界有数の経済大国にしたのは残された彼らである。
1944年のレイテ沖海戦に参加した元海軍中尉の加藤昇氏=当時(97)=が令和2年に亡くなる前年の講演を聞いたことがある。終戦間際には一時、特攻出撃を待つ身となった加藤氏は『(特攻出撃を控え)隣のベッドで同期が童謡〈ふるさと〉を小さな声で歌っていたのが忘れられない』と振り返り、『出撃する同期から〈後を頼む〉といわれた。私が戦後生まれの皆さんにお願いしたいのは先祖を大事にし、日本を頼むということです』と参加者に語りかけていた。
軍人・兵士にとって、戦友との約束は死ぬまで忘れられないものだった。それが、日本復興の原動力になったのではあるまいか」(中略)。
我々の今日の平和は、こうした尊い犠牲の上に成り立っているにも関わらず、その事実ですら断罪し、そして、「あの戦争は悪いことだ」というレッテルを貼り、論点をそらそうとする議論が多い。確かに戦争は行ってはならないし、私も戦争反対である。しかし、あの時代、命を賭して戦った若者たちがいた事実をないがしろにして良いことではない。
平気で人を殺める犯罪が増えている昨今、また、罪を犯しているにも関わらず、平気で逃走する者がいる、そんな現代社会を憂う今日において、私は、他人を思う気持ちが足りなくなった人が多くなったように感じている。
しかし、あの大戦時、しかも必死の特攻作戦のため、生きたくても生きられなかった人たちがいた。公のために尽くし、家族のため、愛する恋人のために、戦ってくださったその先人たちの思いを感じなければならない。そして、私の中でその思いは、日増しに強くなっている。
私が産経新聞社勤務時代に手掛けた「大東亜戦争を語り継ぐ会」に登壇いただいた元軍人の方々は、皆、鬼籍に入られた。実際に先の大戦を戦った世代が消えつつあるということである。それは、彼らの戦友たちはもちろんのこと、周囲の人たち、戦没者の遺志を継ぎ、戦後を生き残り、復興を実現した人たちも消えつつあるということだ。
先人の思いを繋ぐこと。それは、先人から直に話を聞いた者たちの責務なのではないだろうか。「あとは頼む」と日本の将来を次代に託した先人の想い。そして、私自身、先人の話を直に聞いた者として、先人の想いを伝えていけるよう、来年も尽力したいと思っている。
来年は終戦80年。とても大事な年だと位置づけており、その年に相応しいイベントをまた企画してお届けしたいと思う。
今年も一年、私の拙い内容のブログをご覧いただきました皆様、誠にありがとうございます。心から感謝申し上げます。
ブログは本日で筆納めといたします。
来年も、己の心の思いのまま、綴って参りたいと思います。
また来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
そして、皆様、良いお年をお迎えください。
既存メディアの衰退
2024.11.26
去る兵庫県知事選は、9月19日斎藤元彦前知事のパワハラ・おねだり疑惑により兵庫県議会が全会一致で不信任決議し、その結果30日に失職したことによる出直し選挙であった。その当時の既存メディアの報道は、パワハラ・おねだり一色で、斎藤前知事には弁解の余地はなかったように見えたし、出直し選挙に斎藤前知事が出るのを批判する人もいた。また、対立候補であるはずの政治団体「NHKから国民を守る党」党首の立花孝志氏が、マスコミと県政の反斎藤派がデマを拡散したなどとして斎藤氏を「援護射撃」。街頭演説で斎藤氏を持ち上げ、SNSでも拡散された。
その結果、11月17日投開票では、無所属前職の斎藤氏が111万3911票を獲得し県知事に返り咲いた。選挙結果を正面から受け止めた兵庫県明石市の前市長、泉房穂氏は、斎藤氏に対して厳しい姿勢を示したこともあるが、「一面的な見方で、この間、対応してきたことにつき、反省するところも多く、お詫び申し上げたい」と陳謝。自身も市幹部への暴言をめぐって辞職し出直し市長選に臨んだこともあり、「民意は斎藤氏に共感し、斎藤氏を選んだ」として、「民主主義の社会である以上、選挙の結果は最大限に尊重されるべき」と重ねている。
既存メディアの報道に疑問視をした有権者が、「既存メディアの報道と違う」立花氏をはじめとした斎藤氏擁護の拡散されたSNSを情報源としたことにより、「既存メディアの敗北」とした報道もあった。さらに、日テレのミヤネ屋では、MCの宮根誠司氏は「我々テレビメディアにも厳しい意見をいただいたんですけど。テレビって選挙戦が始まると公平性が担保されて、今度は事実確認、ファクトチェック、裏取りというのがあって。それが事実かどうかっていうのを確認しないと、放送しないでおこうっていうことになります。踏み込んだプライバシーみたいなのもいかない。候補者がたくさん出られると時間が限られてくる。というところでネットと比べるのがいいのか悪いのか分からないけど、ある意味抑制的に視聴者の方はご覧になってるのかもしれませんね」と投げかけた。読売テレビ特別解説委員の高岡達之氏は「SNSの戦略で斎藤さんが頂点を極めたという言い方には違和感があります」とした上で「テレビは何十年の歴史があって、法律で我々が好き勝手にできないように縛られている。公職選挙法での放送、自主規制もあります。選挙が始まったら一番選挙で判断をしたい方が欲しい情報を我々は公平性という名で、あるいは中立という名で、沈黙をします。これは認めざるを得ない」と語った。さらに「そうなった時に、今の方々は大事な1票だから。繰り返し映像が見たい、よその会社はどう言ってるんだと。よそのメディアはどうなってるんだと。その役目をYouTubeが果たし、ネットニュースが果たし、SNSが果たしているということ。だからテレビが何かを隠しているんだろうって思われる方の自由だし。そしてSNSが自分たちの意見を代弁してくれるって思うのも、当然の反応だろうと思います」と続けた上で「これが今の時代の我々テレビの立っている現実です」と語った。
これからはマスコミの端くれにいた者としての私の私見ではあるが、考えを述べたい。
「既存メディアを信用しない」という現象は、今に始まったことではないと思っている。
遡ること、10年前の平成26(2014)年、朝日新聞社が9月11日、記者会見を開き、東京電力福島第一原発事故をめぐり政府の事故調査・検証委員会がまとめた吉田昌郎元所長の「聴取結果書(調書)に関する記事を誤りと認め取り消し、木村伊量社長は謝罪をした。また、慰安婦報道についても、8月5日、6日の2日間、自社の慰安婦報道を検証する大特集を行った。30年前から積み重ねてきた吉田清治証言の記事を取り消し、読者向けに「『読者のみなさまへ』吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。最終等を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました」と記している。
この問題を皮切りに、メディアに対する不信感は徐々に広がり、そして、ジャニー喜多川氏の性加害問題に対する各社の報道で既存メディアの報道姿勢、取り扱いに対し、メディアに対する国民の疑義に拍車がかかったかと考える。
2022年に東谷義和がネット配信で問題提起したことにより本格的に表面化したが、その配信後、BBCの報道を皮切りに多くの報道機関が大々的に報道するようになった。旧ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川氏の性加害問題は、60年前から疑惑が指摘され、これまで2度、裁判が行われてきたにも関わらず、BBCで取り上げられた後、世間に幅広くこの問題が明るみになるまでは、メディアはその報道をせず沈黙を守り通してきた。
故ジャニー喜多川氏による所属タレントへの性加害問題が最初に明るみに出たのは、1967年~78年にかけて一世を風靡したジャニーズタレント「フォーリーブス」の故北公次氏が、解散から10年後の1988年に、ジャニー氏から受けた性被害を赤裸々に綴った書籍『光GENJIへ』がきっかけだった。そして、翌年、ビデオでも被害を訴えていたが、メディアは沈黙。今年9月に、TBSがその告白ビデオを入手したとして、放送したが、「今更感」が拭えなかった。そして、メディアの報道に対する責任については、無視できない事実であろうとも考える。当時、日本テレビ「news zero」の有働由美子キャスターは「海外の人権問題は徹底的に批判するのに、もっと近くにあった問題はちゃんと取材して知ろうとしませんでした。なぜ『沈黙』してしまったのか、重く問われているという覚悟のもとに向き合っていきたいと思います」と、メディアの責任について語ったが、私からすれば「何をいまさら」といった感が強かった。その後、各テレビ局がこぞって声明を出したが、どの社も同じように感じるし、苦しい言い訳にしか聞こえなかった。
さらに、今回、共同通信社による生稲晃子参院議員(現外務政務官)の靖國神社参拝報道は、既存メディア不信を加速化した。
共同通信は「2022年8月15日の終戦の日の靖国神社参拝に関する記事で、自民党の生稲晃子参院議員(現外務政務官)が参拝した報じたが、正しくは生稲氏は参拝しておらず、誤った報道でした」と謝罪した。そして、「生稲氏が今月24日、日本政府代表として出席した世界文化遺産「佐渡島の金山」の労働者追悼式に韓国政府関係者が参加を見送ったことに関連した複数の記事でも、生稲氏が参拝したと断定的に報じました。生稲氏が今月24日に参院議員就任後の靖国参拝を否定し、当時の取材過程を調べました。その結果、靖国神社への国会議員の出入りを取材する過程で生稲氏が境内に入るのを見たとの報告がありましたが、本人に直接の確認取材をしないまま記事化したと分かりました。また、当日参拝した複数の自民党議員が共同通信に『生稲氏はいなかった』と述べました。生稲氏が否定したことと併せ、当初の報告が見間違えだったと判断しました。誤った記事は国内外に配信しました。韓国外務省は『生稲議員が22年8月15日に靖国神社を参拝したものと承知している』とコメントしていました。日韓外交に影響した可能性があります。韓国外務省は25日、不参加としたのは追悼の辞の内容などが世界遺産登録に賛成するに当たって日本と合意していた水準に満たないためだったと説明しました」。との内容だ。
既存メディアは、色々と言い訳がましいことを述べるが、そもそもマスコミとは、一定の意図をもって情報を発信している。その一定の意図とは何か。そこを読み解いていかなくてはならない。私は、少なくとも前述する反日マスコミは、「日本を、権力者を貶めようとする意図」を感じるし、そのための都合の良い取材と裏取り、報道を繰り返しているとも感じる。取材費も無いのか、ネットの情報を記事化するマスコミを見受けるが、マスコミの本来の取材は足しげく通って情報を執る取材活動である。それが、本当の意味での取材活動、裏取りを行っているのか疑問に思うし、「一定の意図」のためには取材もせずに報道するなど、『何でもありなのか』とも思う。そういうマスコミの報道姿勢に嫌気を指し、情報を既存メディアから取らずに、SNSから情報を取得するといった者が増えていった気がしてならない。
既存メディアには信頼回復のための本来あるべき取材、裏取りの努力を怠らず、報道して欲しいとは望むが、「一定の意図」が歪んでいるようでは、その期待は遠いものとならざるを得ない。そして、別冊正論12号『朝日新聞・NHKの大罪』で記された、上島嘉郎編集長(当時)の以下の言葉が思い出される。
「昭和20年12月7日、連合国総司令部(GHQ)は新聞各社の代表を集め、彼らが作成した『太平洋戦争史』を示して掲載を命じました。新聞各社は開戦から4年後の翌8日付紙面で一斉に掲載し、朝日新聞はその後も『太平洋戦争史 続編』を連載しました。NHKも『真相はこうだ』というラジオ放送を開始、『真相箱』『質問箱』と名前を変えて昭和23年8月まで約3年間続けられました。新聞社も放送局も、日本人が戦った『大東亜戦争』という呼称は使わず、すべて『太平洋戦争』とし、以降長くマスコミから『大東亜戦争』の言葉は消えることになりました。故江藤淳氏の指摘によって、GHQの占領期間中に日本人がウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)に基づく徹底的な言論統制、情報管理を受けたことは、少なからず知られるようになりましたが、独立回復後半世紀以上を経てもなお、その残滓は色濃い。『その国の新聞(メディア)に影響力を及ぼすことは、数個師団を支配下に置くに等しい』というレーニンの言は今も日本を呪縛しているのではないか。朝日、NHKを見ていると、それを杞憂とやり過ごせない。そんな思いからつくった一冊です」。
片寄ったメディアによってつくられた日本の、戦後レジームからの脱却はまだ先のようである。
その結果、11月17日投開票では、無所属前職の斎藤氏が111万3911票を獲得し県知事に返り咲いた。選挙結果を正面から受け止めた兵庫県明石市の前市長、泉房穂氏は、斎藤氏に対して厳しい姿勢を示したこともあるが、「一面的な見方で、この間、対応してきたことにつき、反省するところも多く、お詫び申し上げたい」と陳謝。自身も市幹部への暴言をめぐって辞職し出直し市長選に臨んだこともあり、「民意は斎藤氏に共感し、斎藤氏を選んだ」として、「民主主義の社会である以上、選挙の結果は最大限に尊重されるべき」と重ねている。
既存メディアの報道に疑問視をした有権者が、「既存メディアの報道と違う」立花氏をはじめとした斎藤氏擁護の拡散されたSNSを情報源としたことにより、「既存メディアの敗北」とした報道もあった。さらに、日テレのミヤネ屋では、MCの宮根誠司氏は「我々テレビメディアにも厳しい意見をいただいたんですけど。テレビって選挙戦が始まると公平性が担保されて、今度は事実確認、ファクトチェック、裏取りというのがあって。それが事実かどうかっていうのを確認しないと、放送しないでおこうっていうことになります。踏み込んだプライバシーみたいなのもいかない。候補者がたくさん出られると時間が限られてくる。というところでネットと比べるのがいいのか悪いのか分からないけど、ある意味抑制的に視聴者の方はご覧になってるのかもしれませんね」と投げかけた。読売テレビ特別解説委員の高岡達之氏は「SNSの戦略で斎藤さんが頂点を極めたという言い方には違和感があります」とした上で「テレビは何十年の歴史があって、法律で我々が好き勝手にできないように縛られている。公職選挙法での放送、自主規制もあります。選挙が始まったら一番選挙で判断をしたい方が欲しい情報を我々は公平性という名で、あるいは中立という名で、沈黙をします。これは認めざるを得ない」と語った。さらに「そうなった時に、今の方々は大事な1票だから。繰り返し映像が見たい、よその会社はどう言ってるんだと。よそのメディアはどうなってるんだと。その役目をYouTubeが果たし、ネットニュースが果たし、SNSが果たしているということ。だからテレビが何かを隠しているんだろうって思われる方の自由だし。そしてSNSが自分たちの意見を代弁してくれるって思うのも、当然の反応だろうと思います」と続けた上で「これが今の時代の我々テレビの立っている現実です」と語った。
これからはマスコミの端くれにいた者としての私の私見ではあるが、考えを述べたい。
「既存メディアを信用しない」という現象は、今に始まったことではないと思っている。
遡ること、10年前の平成26(2014)年、朝日新聞社が9月11日、記者会見を開き、東京電力福島第一原発事故をめぐり政府の事故調査・検証委員会がまとめた吉田昌郎元所長の「聴取結果書(調書)に関する記事を誤りと認め取り消し、木村伊量社長は謝罪をした。また、慰安婦報道についても、8月5日、6日の2日間、自社の慰安婦報道を検証する大特集を行った。30年前から積み重ねてきた吉田清治証言の記事を取り消し、読者向けに「『読者のみなさまへ』吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。最終等を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました」と記している。
この問題を皮切りに、メディアに対する不信感は徐々に広がり、そして、ジャニー喜多川氏の性加害問題に対する各社の報道で既存メディアの報道姿勢、取り扱いに対し、メディアに対する国民の疑義に拍車がかかったかと考える。
2022年に東谷義和がネット配信で問題提起したことにより本格的に表面化したが、その配信後、BBCの報道を皮切りに多くの報道機関が大々的に報道するようになった。旧ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川氏の性加害問題は、60年前から疑惑が指摘され、これまで2度、裁判が行われてきたにも関わらず、BBCで取り上げられた後、世間に幅広くこの問題が明るみになるまでは、メディアはその報道をせず沈黙を守り通してきた。
故ジャニー喜多川氏による所属タレントへの性加害問題が最初に明るみに出たのは、1967年~78年にかけて一世を風靡したジャニーズタレント「フォーリーブス」の故北公次氏が、解散から10年後の1988年に、ジャニー氏から受けた性被害を赤裸々に綴った書籍『光GENJIへ』がきっかけだった。そして、翌年、ビデオでも被害を訴えていたが、メディアは沈黙。今年9月に、TBSがその告白ビデオを入手したとして、放送したが、「今更感」が拭えなかった。そして、メディアの報道に対する責任については、無視できない事実であろうとも考える。当時、日本テレビ「news zero」の有働由美子キャスターは「海外の人権問題は徹底的に批判するのに、もっと近くにあった問題はちゃんと取材して知ろうとしませんでした。なぜ『沈黙』してしまったのか、重く問われているという覚悟のもとに向き合っていきたいと思います」と、メディアの責任について語ったが、私からすれば「何をいまさら」といった感が強かった。その後、各テレビ局がこぞって声明を出したが、どの社も同じように感じるし、苦しい言い訳にしか聞こえなかった。
さらに、今回、共同通信社による生稲晃子参院議員(現外務政務官)の靖國神社参拝報道は、既存メディア不信を加速化した。
共同通信は「2022年8月15日の終戦の日の靖国神社参拝に関する記事で、自民党の生稲晃子参院議員(現外務政務官)が参拝した報じたが、正しくは生稲氏は参拝しておらず、誤った報道でした」と謝罪した。そして、「生稲氏が今月24日、日本政府代表として出席した世界文化遺産「佐渡島の金山」の労働者追悼式に韓国政府関係者が参加を見送ったことに関連した複数の記事でも、生稲氏が参拝したと断定的に報じました。生稲氏が今月24日に参院議員就任後の靖国参拝を否定し、当時の取材過程を調べました。その結果、靖国神社への国会議員の出入りを取材する過程で生稲氏が境内に入るのを見たとの報告がありましたが、本人に直接の確認取材をしないまま記事化したと分かりました。また、当日参拝した複数の自民党議員が共同通信に『生稲氏はいなかった』と述べました。生稲氏が否定したことと併せ、当初の報告が見間違えだったと判断しました。誤った記事は国内外に配信しました。韓国外務省は『生稲議員が22年8月15日に靖国神社を参拝したものと承知している』とコメントしていました。日韓外交に影響した可能性があります。韓国外務省は25日、不参加としたのは追悼の辞の内容などが世界遺産登録に賛成するに当たって日本と合意していた水準に満たないためだったと説明しました」。との内容だ。
既存メディアは、色々と言い訳がましいことを述べるが、そもそもマスコミとは、一定の意図をもって情報を発信している。その一定の意図とは何か。そこを読み解いていかなくてはならない。私は、少なくとも前述する反日マスコミは、「日本を、権力者を貶めようとする意図」を感じるし、そのための都合の良い取材と裏取り、報道を繰り返しているとも感じる。取材費も無いのか、ネットの情報を記事化するマスコミを見受けるが、マスコミの本来の取材は足しげく通って情報を執る取材活動である。それが、本当の意味での取材活動、裏取りを行っているのか疑問に思うし、「一定の意図」のためには取材もせずに報道するなど、『何でもありなのか』とも思う。そういうマスコミの報道姿勢に嫌気を指し、情報を既存メディアから取らずに、SNSから情報を取得するといった者が増えていった気がしてならない。
既存メディアには信頼回復のための本来あるべき取材、裏取りの努力を怠らず、報道して欲しいとは望むが、「一定の意図」が歪んでいるようでは、その期待は遠いものとならざるを得ない。そして、別冊正論12号『朝日新聞・NHKの大罪』で記された、上島嘉郎編集長(当時)の以下の言葉が思い出される。
「昭和20年12月7日、連合国総司令部(GHQ)は新聞各社の代表を集め、彼らが作成した『太平洋戦争史』を示して掲載を命じました。新聞各社は開戦から4年後の翌8日付紙面で一斉に掲載し、朝日新聞はその後も『太平洋戦争史 続編』を連載しました。NHKも『真相はこうだ』というラジオ放送を開始、『真相箱』『質問箱』と名前を変えて昭和23年8月まで約3年間続けられました。新聞社も放送局も、日本人が戦った『大東亜戦争』という呼称は使わず、すべて『太平洋戦争』とし、以降長くマスコミから『大東亜戦争』の言葉は消えることになりました。故江藤淳氏の指摘によって、GHQの占領期間中に日本人がウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)に基づく徹底的な言論統制、情報管理を受けたことは、少なからず知られるようになりましたが、独立回復後半世紀以上を経てもなお、その残滓は色濃い。『その国の新聞(メディア)に影響力を及ぼすことは、数個師団を支配下に置くに等しい』というレーニンの言は今も日本を呪縛しているのではないか。朝日、NHKを見ていると、それを杞憂とやり過ごせない。そんな思いからつくった一冊です」。
片寄ったメディアによってつくられた日本の、戦後レジームからの脱却はまだ先のようである。
終戦80年に向けて⑧~特攻作戦80年の日に思う
2024.10.26
特攻作戦が敢行されて80年。昭和19年10月25日、日米海軍の主力が激突したフィリピン沖海戦で、関行男大尉率いる敷島隊などの零戦や艦上爆撃機が体当たりし、護衛空母1隻撃沈などの戦果をあげた。第1陣である海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊がフィリピン・レイテ島沖の米艦隊に突入してから80年を迎えた。
特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということ。重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという『必死』条件の作戦であった。
特攻隊員の戦死者は、公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が4,146人、陸軍が2,225人の計6,371人に上る(ただし、資料によっては人数に差異があり、戦死者数は確定されていない)。
特攻作戦の立案者の大西瀧治郎海軍中将自身、この作戦を「統率の外道」と認めていたように戦術として異常である。しかし、何故、特攻作戦をしなければならなかったのか。このブログでも何度も問いかけた。しかし、この特攻を語るに、特攻に殉じた若者、そしてそれを命じた者たちに分けて話をする必要があるというのは、自分の答えの中のひとつである。
「靖國で会おう」「後に続くを信ず」との想いを胸に、国を親兄弟を恋人を故郷を護ろうと出撃し散華された若者たち。軍上層部への不信感を募らせながらも自らが命を懸けると決心して立ち上がった者もいただろう。「命を懸けてでも約束を守ります」とよく政治家が言うが、特攻隊員の方々の想いを知れば知るほど、そう簡単に「命を懸ける」なんて私は言えない。二度とこんなことがあってはならい。10月25日付産経新聞の主張の欄にも書いてあったが、「現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある」と。その通りである。
残された遺族はどんな思いだったのか。
ひとつの手紙を紹介したい。
「天国のあなたへ 秋田県 柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの『きみまち坂』につれていってもらいたい。
春のあでやかな桜花、
夏なまめかしい新緑、
秋ようえんなもみじ、
冬清らかな雪模様など、
四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね」。
秋田県二ツ井町が主催した1995年2月14日バレンタインデー「第1回日本一心のこもった恋文」大賞に輝いた柳原タケさんが書いたものである。柳原さんは当時80才で秋田市に住んでおられた。この文は靖国神社の遊就館のビデオにも紹介されており、元雑誌「正論」編集長の大島信三氏のブログにもこの文と出合った時の感動が述べられている。
「戦死した夫は三十二歳のままで柳原タケさんの心の中に生き続けています。傘寿(さんじゅ)とありますから、この天国への書簡はタケさんが八十歳のときに書いたものであることがわかります。おそらくタケさん自身もずっと新婚当時の気持ちのままで夫と対話してきたのでしょう。それにしても、なんとも瑞々しい文章です。愛情の継続性に驚嘆します。
同時に、つかの間の新婚生活しか過ごせなかった時代に巡り合わせてしまった不遇にことばもありません。この一文をメモ帳に書き留めていましたら、三人連れの中年女性が立ち止まりました。彼女たちは読み終えたあと、嗚咽しながらその場を離れていきました」。
…言葉にならない…。今、この文を書いていて、涙が溢れてくる…。
かたや特攻を命じた者の想いはどうであったか。
著書『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀著=ノンフィクション作家、写真家)は、著者による聞き書きをもとにして、そもそも特攻とは何か、大西中将の実像とはいかなるものだったのかが、編まれているが、その中の文章が端的に表現されているので、以下引用したい。
「昭和19年11月下旬、部下の特攻機を率いてフィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地に派遣されたさい、大西の右腕である第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐から聞かされた話である。角田はかつて、小田原から計器飛行を教わったことがあった。小田原は、『教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようと言うのに、黙っているわけにはいかない』と、大西から、『参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』と言われていたというその真意を話してくれたのだ。小田原大佐の語った大西中将の真意を、角田は克明に記録している」と。
そして、それは「これ(特攻によるレイテ防衛)は、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。敵に対してはあくまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておかねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員の後を追うであろう」。
…考えさせられる…。
先述の産経新聞「主張」では、以下のように記している。
「特攻は戦後、『軍国主義の象徴』などと批判された。選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。特攻を『カミカゼ』と呼んだ米軍は、異常な戦術とみなす一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。特攻は、世界が日本人を強い存在とみなす一因となり、戦後の日本も守ってくれている。
特攻に赴いた将兵一人一人にさまざまな思いがあったことを想像するとき、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない」。
寺子屋「玉川未来塾」では、今年は「特攻作戦から80年」をテーマにイベントを開催した。そして、来年は「終戦80年」をテーマにイベントを開催する。今日の日本の平和があるのは命を賭して戦ってくれた先人のお陰で、その英霊の尊い犠牲の上に今の平和があるのである。
「特攻を賛美するな」とか「戦争に賛成なのか」などとご批判をいただくことがある。しかし、賛美もしていないし、戦争は絶対に反対である。
そうではなくて、実際に、命を懸けて戦ってくれた先人がいるという事実にスポットを当てた時に、なぜ、その先人に感謝の気持ちを述べることがいけないのか。何故、英霊が祀られている靖國神社を感謝の誠を胸に参拝してはいけないのか。事実を客観的に見ていけば、その答えが、私が行うイベントの「事実」なのであって、誰も何も言えないはずである。英霊への感謝以外の何物でもない。
結びに、先日開催したイベントでお話をいただいたジャーナリストの上島嘉郎元雑誌「正論」編集長からの次代を担う若者たちへのメッセージでいただいた言葉で締めたいと思う。
「ご両親を大事に、無限の希望を持って羽ばたいてほしい。そして、彼らがいたということを忘れないで欲しいし、忘れることは二度殺すことになる。日本の未来は次代を担う若者にかかっているが、それはそれとして、自分の人生をいかに充実させて大切に生きていくかを考えてほしいし、自分の人生を充実させて生きていくことが、どこか日本の国のために役立つこと、自分以外の誰かのために役立てるということを意識して欲しい。思いは繋がっており、自分は一人ではなく、大きな日本人という民族の一人としての存在である」。
心の奥深くに噛み締めたい。
特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということ。重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという『必死』条件の作戦であった。
特攻隊員の戦死者は、公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が4,146人、陸軍が2,225人の計6,371人に上る(ただし、資料によっては人数に差異があり、戦死者数は確定されていない)。
特攻作戦の立案者の大西瀧治郎海軍中将自身、この作戦を「統率の外道」と認めていたように戦術として異常である。しかし、何故、特攻作戦をしなければならなかったのか。このブログでも何度も問いかけた。しかし、この特攻を語るに、特攻に殉じた若者、そしてそれを命じた者たちに分けて話をする必要があるというのは、自分の答えの中のひとつである。
「靖國で会おう」「後に続くを信ず」との想いを胸に、国を親兄弟を恋人を故郷を護ろうと出撃し散華された若者たち。軍上層部への不信感を募らせながらも自らが命を懸けると決心して立ち上がった者もいただろう。「命を懸けてでも約束を守ります」とよく政治家が言うが、特攻隊員の方々の想いを知れば知るほど、そう簡単に「命を懸ける」なんて私は言えない。二度とこんなことがあってはならい。10月25日付産経新聞の主張の欄にも書いてあったが、「現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある」と。その通りである。
残された遺族はどんな思いだったのか。
ひとつの手紙を紹介したい。
「天国のあなたへ 秋田県 柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの『きみまち坂』につれていってもらいたい。
春のあでやかな桜花、
夏なまめかしい新緑、
秋ようえんなもみじ、
冬清らかな雪模様など、
四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね」。
秋田県二ツ井町が主催した1995年2月14日バレンタインデー「第1回日本一心のこもった恋文」大賞に輝いた柳原タケさんが書いたものである。柳原さんは当時80才で秋田市に住んでおられた。この文は靖国神社の遊就館のビデオにも紹介されており、元雑誌「正論」編集長の大島信三氏のブログにもこの文と出合った時の感動が述べられている。
「戦死した夫は三十二歳のままで柳原タケさんの心の中に生き続けています。傘寿(さんじゅ)とありますから、この天国への書簡はタケさんが八十歳のときに書いたものであることがわかります。おそらくタケさん自身もずっと新婚当時の気持ちのままで夫と対話してきたのでしょう。それにしても、なんとも瑞々しい文章です。愛情の継続性に驚嘆します。
同時に、つかの間の新婚生活しか過ごせなかった時代に巡り合わせてしまった不遇にことばもありません。この一文をメモ帳に書き留めていましたら、三人連れの中年女性が立ち止まりました。彼女たちは読み終えたあと、嗚咽しながらその場を離れていきました」。
…言葉にならない…。今、この文を書いていて、涙が溢れてくる…。
かたや特攻を命じた者の想いはどうであったか。
著書『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀著=ノンフィクション作家、写真家)は、著者による聞き書きをもとにして、そもそも特攻とは何か、大西中将の実像とはいかなるものだったのかが、編まれているが、その中の文章が端的に表現されているので、以下引用したい。
「昭和19年11月下旬、部下の特攻機を率いてフィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地に派遣されたさい、大西の右腕である第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐から聞かされた話である。角田はかつて、小田原から計器飛行を教わったことがあった。小田原は、『教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようと言うのに、黙っているわけにはいかない』と、大西から、『参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』と言われていたというその真意を話してくれたのだ。小田原大佐の語った大西中将の真意を、角田は克明に記録している」と。
そして、それは「これ(特攻によるレイテ防衛)は、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。敵に対してはあくまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておかねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員の後を追うであろう」。
…考えさせられる…。
先述の産経新聞「主張」では、以下のように記している。
「特攻は戦後、『軍国主義の象徴』などと批判された。選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。特攻を『カミカゼ』と呼んだ米軍は、異常な戦術とみなす一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。特攻は、世界が日本人を強い存在とみなす一因となり、戦後の日本も守ってくれている。
特攻に赴いた将兵一人一人にさまざまな思いがあったことを想像するとき、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない」。
寺子屋「玉川未来塾」では、今年は「特攻作戦から80年」をテーマにイベントを開催した。そして、来年は「終戦80年」をテーマにイベントを開催する。今日の日本の平和があるのは命を賭して戦ってくれた先人のお陰で、その英霊の尊い犠牲の上に今の平和があるのである。
「特攻を賛美するな」とか「戦争に賛成なのか」などとご批判をいただくことがある。しかし、賛美もしていないし、戦争は絶対に反対である。
そうではなくて、実際に、命を懸けて戦ってくれた先人がいるという事実にスポットを当てた時に、なぜ、その先人に感謝の気持ちを述べることがいけないのか。何故、英霊が祀られている靖國神社を感謝の誠を胸に参拝してはいけないのか。事実を客観的に見ていけば、その答えが、私が行うイベントの「事実」なのであって、誰も何も言えないはずである。英霊への感謝以外の何物でもない。
結びに、先日開催したイベントでお話をいただいたジャーナリストの上島嘉郎元雑誌「正論」編集長からの次代を担う若者たちへのメッセージでいただいた言葉で締めたいと思う。
「ご両親を大事に、無限の希望を持って羽ばたいてほしい。そして、彼らがいたということを忘れないで欲しいし、忘れることは二度殺すことになる。日本の未来は次代を担う若者にかかっているが、それはそれとして、自分の人生をいかに充実させて大切に生きていくかを考えてほしいし、自分の人生を充実させて生きていくことが、どこか日本の国のために役立つこと、自分以外の誰かのために役立てるということを意識して欲しい。思いは繋がっており、自分は一人ではなく、大きな日本人という民族の一人としての存在である」。
心の奥深くに噛み締めたい。