終戦80年に向けて④~靖國神社をお支えするということ
2024.07.22
今年は特攻作戦から80年、そして、来年は終戦80年を迎える。昭和から平成、令和と時代が移り、戦争体験者が急速に減っている中、戦後生まれの人口が全体の8割を超え、戦争が「記憶」から「歴史」へと変わりつつある。「かつて日本軍は、アジア諸国を侵略し、略奪するなどをして地元の人々に大変つらい思いをさせたことを今でもアジアの諸国民は恨み続けている」と教えられた間違った歴史を今でも信じ、正しい歴史を知らない世代も少なくないのが現状である。

色々な人がいるし、どんな思想を持とうが、それは個人の自由だが、しかし、今日の平和があるのは、間違いなく先の大戦で命を賭して戦ってくださった英霊のお陰様で、先祖の尊い犠牲があったからこそ、今日の平和があると私は考えている。
戦争で夫を、父親を亡くし、そのために、残された家族はどんな思いをして戦後を生きてきたか。苦労は計り知れないし、戦争を悪とする考え方は当然である。私の亡き父、そして現存の母も同じ思いをして生きてきた世代である。その苦労話は、私も良く聞かされたし、その関係もあり、私自身、昔はリベラル思想の持ち主であった。しかし、1985年以降、大東亜戦争に関する秘密にされた公文書が公開され、そして、今日までに、次々と歴史の真実が明らかにされた。私は、その機会に触れることができ、大東亜戦争が引き起こされた背景には、ソ連コミンテルンなど、日本を米国と戦わせ、日本を貶めようとする者たちがおり、そして、戦争をせざるをえない状況にまで日本を追い詰めた左翼思想の者たちが背後にいたことを知り、「一方的な知識で自己の思想を支配していた」事実に目覚めた。とは言え、当時の日本の指導者たちも良くなかったことも事実ではある。その後、正しい日本の歴史を客観的に見つめることができるようになり、今では、保守の立場で活動をしている。

その活動の中で、毎年、靖國神社を昇殿参拝し、そして、今日の学校教育とは違った視点から歴史を学べる遊就館を見学するイベントを開催している。今年のテーマは「靖國神社と特攻隊」。特攻作戦から80年の今年、勇躍出撃され散華した特攻隊員たちの思いを、我々はどう受け止めて今日を生きていけば良いのだろうか。今の平和があるのは、日本国を、そして家族を、恋人を、故郷を護るために命を賭して戦ってくれた英霊のお陰様。先人に感謝しかないのである。そんな思いを胸に、英霊に感謝の誠を捧げるべく、イベントを開催する。
その内容と詳細、お申し込み方法などは以下のURLよりご覧いただきたい。
https://tamagawa-miraijuku.com/event.html

靖國神社は明治2(1869)年に東京招魂社として創建され、明治12年に現在の名称になり、今年で155年を迎えた。幕末の戊辰戦争以降、国のために戦死した246万余人の霊がまつられており、うち213万人が大東亜戦争の死者の霊である。その靖國神社をお支えしてきたのは、先の大戦で身内を亡くされた遺族の方々。しかし、元軍人の方々の大半は亡くなり、遺族の方々も少なくなってきた現状の中、これからの靖國神社をお支えするのは誰なのであろうか。

平成元(1989)年に刊行された『靖國神社創立百二十年記念特集』で、当時の松平永芳宮司、森田康之助崇敬者総代、高橋史郎明星大学助教授の鼎談の中で、松平宮司が以下のように語っている。
「私は就任した時から今日までそうなんですけど、靖國神社は政府のお金で維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならないんじゃないかと考えています。(中略)少額でもいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお蔭で自分たちの今日があり平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております」と。

「国民総氏子」という考え方。私はこの考え方に多く賛同をする。遺族の方々だけでなく、国民一人ひとりが「氏子」という思いで靖國神社を参拝し、お支えすることが必要であると思うのである。そのお支えできるためにある「崇敬奉賛会」という制度。当然、私も「靖國神社崇敬奉賛会」の会員である。

靖國神社崇敬奉賛会は、日本を愛してやまなかった英霊の弛まぬ努力と切なる想いを、
いついつまでも伝えていきたいと平成10年12月に設立された。靖國神社を大切に思う人々が会員として集い、「やすくにの心」を伝えるため、公開シンポジウム、勉強会・講演会、青少年健全育成事業、奉賛金奉納式英霊顕彰祭などのさまざまな活動を行っている。崇敬奉賛会の活動の目的は、日本人の「心の拠りどころ」である靖國神社の大切さを伝えていくこと、そして「やすくにの心」で日本をつなぎ、「日本らしさ」、「日本人らしさ」を取り戻すことにある。

来年は終戦80年の節目の年。これを機に、「崇敬奉賛会」の会員でない方は是非、会員となってもらいたいと思う。そして、「国民総氏子」の一人として、靖國神社をお支えするためにともに尽力していきたいと思う次第である。
2024.07.22 17:51 | 固定リンク | 未分類
終戦80年に向けて③~沖縄戦終結の日に思う
2024.06.23
今日は「沖縄戦終結の日」。

先ずは、沖縄戦で犠牲になられた全ての方々に、そして、沖縄を、日本国を護るために命を賭して沖縄の海に散華された特攻隊の方々に哀悼の誠を捧げたいと思います。

かつて、上皇陛下が皇太子時代、日本人が忘れてはならない4つの日として、沖縄戦終結の日(6月23日)、広島、長崎の原爆の日(8月6日と9日)、終戦の日(8月15日)を挙げ、「沖縄戦終結の日」はその中のひとつである。

開戦以来、進撃を続けていた日本軍は、昭和17年6月にミッドウェー海戦での敗北を境に徐々に後退することとなり、南太平洋上の数々の島嶼にあった基地も奪われることとなった。このため日本軍は、本土防衛の最後の拠点を沖縄とし、昭和19年3月に南西諸島に沖縄防衛のため、第32軍を創設。一方米軍は、本土攻撃の拠点を硫黄島・沖縄と定め、昭和19年10月には沖縄攻略を正式に決め(アイスバーグ作戦)、同年10月10日、まず沖縄本島に大規模な空襲を行なった。
昭和20年3月17日には硫黄島にあった日本軍守備隊が玉砕し、これにより米軍は、太平洋地区にあった全軍の戦力を沖縄攻略に向けて結集することなった。

沖縄戦では、沖縄の慶良間諸島に米軍が上陸した昭和20年3月26日から、日本軍司令官牛島満中将らが自決した沖縄本島での組織的戦闘が終結する6月23日まで、日本軍将兵と県民約18万8千人が亡くなった。
圧倒的兵力の米軍に、沖縄守備の日本軍は激しく抵抗し、神風特攻隊、陸軍特攻隊、人間魚雷回天、戦艦大和の特攻作戦、首里を巡る攻防と多大な住民の犠牲、学童疎開対馬丸の遭難、そして、県内の鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊など男女の中等学校生らも動員され、多くの若い命が散った。沖縄戦のこの語りきれない犠牲こそが、日本の存亡の危機から救ったという事実を心して記憶し続けていかなければならない。

日本国を、そして沖縄を護ろうと特攻作戦が開始されたのは、昭和19年10月。沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間列島に上陸した昭和20年3月26日から始まった。
特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということだ。重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという『必死』条件の作戦であった。

特攻作戦は、鹿児島県の知覧基地を始め、万世、鹿屋、または、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃している。
特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻作戦での戦死者は海軍2,531名、陸軍1,417名、計3,948名にものぼり、その中でも、知覧基地が本土最南端だったということもあり、439名と最も多く特攻作戦で戦死している。

1945年6月、沖縄の地下に掘られた洞穴で自決した、海軍司令官の大田實海軍中将の自決直前に海軍次官にあてた電文は、その沖縄戦の惨状と沖縄県民の献身をつづり、「後世特別の配慮を」と訴えている。その全文を記したい。

大田實司令官が出した電文
(旧海軍司令部壕ホームページより)
《原文》
062016番電
 発 沖縄根拠地隊司令官
 宛 海軍次官
 左ノ電■■次官ニ御通報方取計ヲ得度
 沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ 殆ド 顧ミルニ 暇ナカリキ
 然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下■■■風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ
 所詮 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ■■ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
 更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終止一貫
 勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ■■ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■
 一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ
(■は判読できず)

映画「永遠の0」の主人公、宮部久蔵が教官を務めるシーンの中で、「可」を出さない訓練兵のシーンがある。特攻に行かせたくない宮部久蔵の思いに、特攻作戦の方針を確認する会議の中で、上官に反対意見を述べた「美濃部正少佐」が重なった。
「美濃部正少佐」。特攻を拒否しつつ「特攻精神」で戦い抜いた指揮官である。
部下を守り、散華の美学ではなく、夜間攻撃に活路を見出し、最善と信じることを実行した指揮官の覚悟。
特攻作戦の方針を確認する会議の中で、美濃部少佐は上官に以下の反対意見を述べた。
「いまの若い搭乗員のなかに、死を恐れる者は誰もおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義がいります。しかも死にがいのある戦功をたてたいのは当然です。精神力一点張りの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。同じ死ぬなら、確算のある手段を講じていただきたい」と。
美濃部少佐は特攻作戦に活路を見出すのではなく、夜間攻撃に活路を見出していた。そして、その美濃部少佐が指揮する「芙蓉部隊」からは一機の特攻機も出させなかった。
美濃部少佐の他にも「特攻反対」を唱えた指揮官がいた。志賀淑雄少佐、岡嶋清熊少佐、野中五郎少佐、石橋輝志少佐。
彼らは「上官の命令は絶対」という厳しい軍隊という世界の中に身を置きながら、思考回路を失くしたロボットのように従うのではなく、冷静に状況を判断し、最善と信じることを、信念を持って発言し、実行した。彼らには「覚悟」が見える。

特攻作戦とは何だったかの。沖縄を護るため、日本国を護るための作戦であったが、それは今の我々に何を問いかけ、何を次代へと引き継げばよいのか。日本人の覚悟とは何なのか。

今年も「靖国神社昇殿参拝、遊就館見学」イベントを8/24(土)に靖国神社にて開催する。
講師は禰宜の松本聖吾総務部長。講演テーマは「靖国神社と特攻隊」。特攻作戦80年の今年、沖縄を、日本を護るために行ったあの作戦はどんなものだったのか、今一度、噛み締めたいと思う。

今日の日本の平和は、命を賭して戦ってくださった英霊のお陰様。尊い命の犠牲の上に成り立っている平和を心から有り難く、そして英霊に感謝しなくてはならない。今日は英霊に思いを馳せる一日だった。
2024.06.23 18:35 | 固定リンク | その他
終戦80年に向けて②~残された者の役割
2024.05.22
来年、終戦80年を迎えるにあたり、以前にも記したが、改めて再掲するとともに、加筆し、そして、自分の思いを綴ってみたい。

昭和から平成、令和と時代が移り変わり、戦争体験者が急速に減っている中、大東亜戦争が「記憶」から「歴史」へと変わっていく昨今において、「あの戦争が残したものとは何だったのか」、そして、「先人が死を賭して遺したもの、命と引き換えに伝えたものは何なのか」を改めて考える必要があるのではないか、と考えており、そのため、今日の日本の礎を築いた英霊に感謝の誠を捧げるとともに、先人の声を、思いを、次代へとつないでいくためのイベントを、毎年開催している。

終戦を迎えて今年で79年。そして、来年は80年という節目の年を迎える。
靖国神社には幕末の戊辰戦争以降、国のために戦死した246万余人の御霊がまつられているが、そのうち213万人が大東亜戦争で亡くなられた。その中でも、特攻作戦に従事した特攻戦死者は、「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍2,531名、陸軍1,417名、計3,948名。そして、鹿児島県の知覧基地を始め、九州各地、また、当時日本が統治していた台湾など、多くの基地から出撃しましたが、本土最南端に基地があった知覧基地は、特攻作戦で439名と最も多く戦死している。

祖国を護るために昭和19年10月に特攻作戦が開始され、沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間(けらま)列島に上陸した昭和20年3月26日から始まり、そして、特攻作戦が開始されて、今年で80年を迎える。
特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということで、重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという『必死』条件の作戦であった。

その知覧で「富屋食堂」を営み、その出撃前のわずかな日々を富屋食堂で過ごした10代から20代の若い特攻隊員達をわが子のように慈しみ、「特攻の母」と呼ばれ、そして、私財を投げ打ってまでも親身に接したのが「鳥濱トメ」さんであった。

故石原慎太郎氏はかつて「生きた菩薩という言葉があるが、そんな人を私はこの世で一人だけ知っている」という書き出しで、鳥濱トメさんを紹介している。
鳥濱トメさんは明治35年、鹿児島県川辺郡坊津町で生まれ、鉄道員の旦那様と結婚したあと、昭和4年、同じ郡の知覧町で「富屋食堂」を開きます。大東亜戦争の末期、知覧飛行場は陸軍特攻隊の出撃基地となり、この食堂を利用する特攻隊員たちはトメさんを母親のように慕う。
「蛍になって帰ってきます」と言って出撃をした宮川三郎少尉、「明日死にますから故郷の歌をうたわして下さい」と言って、「アリラン」を歌った朝鮮出身の光山文博少尉、他、特攻隊員たちとのエピソードは数知れず。
その特攻隊員たちを我が子のように迎え、時には家財を売ってまでも食べたいものを食べさせたり、軍には内緒で隊員から私信を預かったり、隊員の最後の様子を家族にしたためたりした鳥濱トメさん。
特攻隊員たちが命を賭してまでも守りたかったものは何だったのか。将来の我々に何を託したのか。私心が渦巻くこんな世の中だからこそ、公のために身を尽くした英霊の思いを噛み締めたいと思うのだ。

靖國神社の昨年の社報9月号は、一緒にお仕事をさせていただいた桑原聡元雑誌「正論」編集長のエッセイが寄稿されている。
東条英機と共に絞首刑に処された土肥原賢二を祖父に持つ歌人、佐伯裕子さんが紹介され、
その中でも、以下の文章に心が留まった。
佐伯さんが詠んだ歌の中の一首。
「一度だけ叫んでみたし『死に人をさらして殺して何の誉れか』」
平成18年8月15日に小泉純一郎首相が靖國神社を公式参拝し、内外から声高に議論が沸き起こった。そして、平成19年、『みずうみ』と題した歌集を上梓し、その中の一首である。さらに、文章は次のように進む。
「伝統や文化が魂にしみこんだ存在、すなわち人間が、宗教施設に祀られた死者を悼み、感謝しようとするとき、その行為を静かに見守るのは、どんな国においても、人として最低の義務であろう。自分の価値観にそぐわないと、その行為を声高に非難する者、それに対して、『収まりのよい物語』に付和雷同して大声で反論する者は、ただの動物ではないか。非難する者にも反論する者にも、靖國の政治利用という薄汚い思惑が感じてならないのだ。そんな議論が、遺族を深く悲しませ、傷つけていることに、彼らは思いが及ばない。
佐伯さんの一首は、遺族の痛切な叫びであり、それでなく、魂が壊れゆく現代人に対する警鐘として心に突き刺さる。魂を持つ人間であるならば、参拝は静かに行い、静かに見守りたい」。
深く賛同する内容である。

大東亜戦争の真実と事実。それを探るべく、近現代史のバイブルとして国民に長きにわたり読まれている『大東亜戦争への道』(中村粲著・展転社)、著者は終章の「改めて大東亜戦争を思ふ」の中で、以下のように記している。
「結果論的に敗れた戦争を裁断するのではなく、戦争に至った明治以来の歴史の流れを、当時の人々の我が心として振返る時、あの戦争を『愚かな戦争』と傍観者的に冷笑することはできない。それは、歴史を担った誠実なる人々に対する冒涜のやうに思はれるのだ。『破滅への道』を願った日本人は一人も居なかった筈だ。誤算を不誠実と混同してはならぬ」。

歴史を今の目線で語るのではなく、その時代まで遡って、その時代と同じ目線で見た時に映るものは、決して今の時代の目線と同じではない。その時代と同じ目線で見た時に、あの戦争を愚かな戦争と断罪できるのだろうか。確かに、戦争は決して起こしてはならないのは当然の事。しかし、大東亜戦争について、家族を、恋人を守るために命を賭して戦った先人の思いや事実は、決して否定できるものではないし、今の時代の目線で断罪してはならないと私は思っている。そして、正しく歴史を学び、左翼に毒された戦後日本の近現代史教育を客観的に見、そして間違った教えを正し、正しい歴史の真実が、全うに語り継がれるべく、私自身、今後も活動をしていく所存である。

今日の日本の平和があるのは、先の大戦で命を賭して戦ってくださった英霊のお陰様であることを今一度噛み締めたいと思う。
2024.05.22 18:59 | 固定リンク | その他

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