終戦80年に向けて⑥~特攻の真意とは
2024.08.25
今年は特攻作戦から80年。この年に私は「何故、特攻がなされたのか」を追求すべく、色々な本を読みあさっているが、その中で、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀著=ノンフィクション作家、写真家)、そして『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』(角田和男著=零戦搭乗員・角田和男少尉〈のち中尉〉)の中に、特攻の真意があると感じている。

『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』は、著者による聞き書きをもとにして、そもそも特攻とは何か、大西中将の実像とはいかなるものだったのか、編まれている。
特攻の発想が生まれた経緯。そもそも特攻戦術を発案したのは大西中将ではなかったこと。大西中将がフィリピンに着任して特攻戦術の責任者として任命される前から、特攻戦術はすでに幾度も提案され試作機も作られていたこと。大西中将のフィリピン着任が、太平洋戦争で最後に残された戦局挽回の好機だったレイテ沖海戦の前だったこと。栗田艦隊のレイテ湾突入に際し、敵空母の甲板を使用不能にするため、特攻戦術の発動が要請されたことなど。それらの事実を著者は掘り起こし、丹念に関係者から聞き取ることで特攻や大西中将の実像を浮き彫りにしている。中でも戦時中、大西中将の副官として仕えた門司親徳氏と、特攻の戦果を見届けるのが役目の直掩機に長く搭乗し続けた角田和男氏からは、かなりの時間をかけてお話を伺ったようである。

門田隆将氏も薦めているという『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』は、ソロモンで、硫黄島上空で、決死の戦いを繰り広げ、ついには「必死」の特攻作戦に投入された零戦ベテラン・パイロット、角田和男中尉が綴る記録。
大東亜戦争における撃墜王で、昭和9(1934)年、海軍予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊したときの副長兼教頭が、当時大佐だった大西瀧治郎で、その後、中国大陸で戦ったときも、大西は連合航空隊司令官として角田氏の上官だった。その著書は、克明に記録された内容を元に綴られている。

その中で、先述の神立氏が、詳細に述べている箇所があるので引用し、記したい。

「昭和19年11月下旬、部下の特攻機を率いてフィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地に派遣されたさい、大西の右腕である第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐から聞かされた話である。角田はかつて、小田原から計器飛行を教わったことがあった。小田原は、『教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようと言うのに、黙っているわけにはいかない』と、大西から、『参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』と言われていたというその真意を話してくれたのだ。小田原大佐の語った大西中将の真意を、角田は克明に記録している」と。
そして、それは「これ(特攻によるレイテ防衛)は、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。敵に対してはあくまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておかねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員の後を追うであろう」。


時を経るにつれ、特攻の父と称される大西中将への誹謗は増し、エキセントリックなイメージが独り歩きするが、本書や他の戦史を読む限りでは、大西中将は、敗戦が濃厚になってもなお徹底交戦を唱え続け、果てには「二千万の将兵が特攻すべき」と主張し続けたことに「悪名高き大西中将」の理由がありそうである。しかし、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』を読む限りでは、大西中将がそのような言動に走ったのは内地に戻ってからのようで、特攻の責任者であったフィリピンでの在任時は、温厚で情のある中将でいた様子が伺える。
そして、大西中将が考えていた意志とは、フィリピンの戦いで太平洋戦争に終止符を打つ、ということであったという。「戦争はもはや、搭乗員自らが敵機に突入せねばならないところまできています。陛下、どうか戦争終結の御聖断を!」というのが大西中将の真意ではなかったのではないか。

そして、先程の大西中将の話を裏付ける記事がある。
昭和37年8月9日付の朝日新聞に掲載された、「最後の従軍」という連載記事で、その作者は作家の「山岡荘八」氏。従軍記者をしていた山岡氏は西田高光中尉の言葉である。これから出撃しようとしている西田中尉に「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのかどうか?」「もし負けても、悔いはないのか?」「今日の心理になるまでにどのような波があたのか?」など、厳しい質問をした中で、西田中尉は以下のように答えるのである。
「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなど思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです…おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに…」。
こうした証言は、命を賭して戦うことが、ゆくゆくの日本を担う礎となるであろうことを信じていたことだと、物語るものだと思うのである。

先人の想いを継ぐ我々は、この特攻作戦によって命を賭して戦った英霊の想いを継ぎ、これからの日本が良くなるために尽力しなければならないことが、使命である。そして、この特攻作戦で散華した英霊には、「今日の日本の平和があるのは、先人のおかげです、『ありがとうございます』」と感謝の誠を捧げるとともに、これからも、二度と戦争の悲劇が起こらないようにすることは言うまでもないが、戦争体験者が矢継ぎ早に鬼籍に入られる中、正しい歴史や、その真実を知る者が少なくなる中で、こうした現状を鑑みた時に、元軍人から直接聞いた者たちが、率先して誤った歴史が独り歩きしないよう、正しい歴史を次代へ語り継いでいくことが、とても大切であると思ってならない。そして、私もこれからの若者たちにその想いを繋いでいきたいと思う。
2024.08.25 13:14 | 固定リンク | その他

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