終戦80年に向けて⑩~沖縄戦から80年に想う
2025.03.25
今から80年前の3月26日、米軍のA.D. ブルース少将の率いる米第77歩兵師団が、午前8時4分、慶良間諸島の阿嘉島に上陸し、沖縄戦が始まった。
そして、沖縄県石垣島出身の伊舎堂用久大尉率いる「誠第十七飛行隊」に沖縄特攻作戦の先人として出撃を命じ、十機全機が米機動部隊に突入し、散華した。

伊舎堂大尉の特攻後、沖縄戦が激化するに従って、昭和20年4月6日、菊水作戦第一号が発令され、本格的に航空戦の大半を敵艦船への体当たり戦法に投入した。この菊水作戦は一号作戦から6月22日の十号作戦まで続いた。
昭和19年10月、フィリピン・マバラカット基地で海軍による神風特別攻撃隊が結成された際、大西瀧治郎中将が自ら「統率の外道」と称した「必死」の特攻作戦が沖縄戦で正式な作戦として展開されることになったのだ。特攻隊員の戦死者は、公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が4,146人、陸軍が2,225人の計6,371人に上る(ただし、資料によっては人数に差異があり、戦死者数は確定されていない)。そして、鹿児島県の知覧基地を始め、九州各地、また、当時日本が統治していた台湾など、多くの基地から出撃したが、本土最南端に基地があった知覧基地は、特攻作戦で439名と最も多く戦死している。

「靖國で会おう」「後に続くを信ず」との想いを胸に、国を親兄弟を恋人を故郷を護ろうと出撃し散華された若者たち。軍上層部への不信感を募らせながらも自らが命を懸けると決心して立ち上がった者もいただろう。「命を懸けてでも約束を守ります」とよく政治家が言うが、特攻隊員の方々の想いを知れば知るほど、そう簡単に「命を懸ける」なんて私は言えない。そして、二度とこんなことがあってはならない。

「特攻は戦後、『軍国主義の象徴』などと批判された。選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。特攻を『カミカゼ』と呼んだ米軍は、異常な戦術とみなす一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。特攻は、世界が日本人を強い存在とみなす一因となり、戦後の日本も守ってくれている。特攻に赴いた将兵一人一人にさまざまな思いがあったことを想像するとき、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない」。

上記、産経新聞の記事を引用させてもらったが、終戦80年を迎える今年。昭和から平成、令和と時代が移り、戦後生まれの人口が全体の8割を超え、戦地に赴いた元軍人の方々が次々と鬼籍に入られ、戦争体験者、そしてご遺族をも急速に減っている中、戦争が「記憶」から「歴史」へと変わりつつある。そして、間違った史実が伝わっている現状を憂うとともに、多くの課題が山積する現代社会において、どのようにして英霊の想いを次代へ繋ぐべきなのか。今日の日本の平和は、先祖の尊い犠牲があったからこそ、そのことを我々は忘れてはならないのと同時に、先人の想いを次代へと伝えていく責任があると考えるのである。そして、この活動は、これからも続けていこうと思う。
2025.03.25 14:30 | 固定リンク | その他

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