既存メディアの衰退
2024.11.26
去る兵庫県知事選は、9月19日斎藤元彦前知事のパワハラ・おねだり疑惑により兵庫県議会が全会一致で不信任決議し、その結果30日に失職したことによる出直し選挙であった。その当時の既存メディアの報道は、パワハラ・おねだり一色で、斎藤前知事には弁解の余地はなかったように見えたし、出直し選挙に斎藤前知事が出るのを批判する人もいた。また、対立候補であるはずの政治団体「NHKから国民を守る党」党首の立花孝志氏が、マスコミと県政の反斎藤派がデマを拡散したなどとして斎藤氏を「援護射撃」。街頭演説で斎藤氏を持ち上げ、SNSでも拡散された。
その結果、11月17日投開票では、無所属前職の斎藤氏が111万3911票を獲得し県知事に返り咲いた。選挙結果を正面から受け止めた兵庫県明石市の前市長、泉房穂氏は、斎藤氏に対して厳しい姿勢を示したこともあるが、「一面的な見方で、この間、対応してきたことにつき、反省するところも多く、お詫び申し上げたい」と陳謝。自身も市幹部への暴言をめぐって辞職し出直し市長選に臨んだこともあり、「民意は斎藤氏に共感し、斎藤氏を選んだ」として、「民主主義の社会である以上、選挙の結果は最大限に尊重されるべき」と重ねている。
既存メディアの報道に疑問視をした有権者が、「既存メディアの報道と違う」立花氏をはじめとした斎藤氏擁護の拡散されたSNSを情報源としたことにより、「既存メディアの敗北」とした報道もあった。さらに、日テレのミヤネ屋では、MCの宮根誠司氏は「我々テレビメディアにも厳しい意見をいただいたんですけど。テレビって選挙戦が始まると公平性が担保されて、今度は事実確認、ファクトチェック、裏取りというのがあって。それが事実かどうかっていうのを確認しないと、放送しないでおこうっていうことになります。踏み込んだプライバシーみたいなのもいかない。候補者がたくさん出られると時間が限られてくる。というところでネットと比べるのがいいのか悪いのか分からないけど、ある意味抑制的に視聴者の方はご覧になってるのかもしれませんね」と投げかけた。読売テレビ特別解説委員の高岡達之氏は「SNSの戦略で斎藤さんが頂点を極めたという言い方には違和感があります」とした上で「テレビは何十年の歴史があって、法律で我々が好き勝手にできないように縛られている。公職選挙法での放送、自主規制もあります。選挙が始まったら一番選挙で判断をしたい方が欲しい情報を我々は公平性という名で、あるいは中立という名で、沈黙をします。これは認めざるを得ない」と語った。さらに「そうなった時に、今の方々は大事な1票だから。繰り返し映像が見たい、よその会社はどう言ってるんだと。よそのメディアはどうなってるんだと。その役目をYouTubeが果たし、ネットニュースが果たし、SNSが果たしているということ。だからテレビが何かを隠しているんだろうって思われる方の自由だし。そしてSNSが自分たちの意見を代弁してくれるって思うのも、当然の反応だろうと思います」と続けた上で「これが今の時代の我々テレビの立っている現実です」と語った。

これからはマスコミの端くれにいた者としての私の私見ではあるが、考えを述べたい。
「既存メディアを信用しない」という現象は、今に始まったことではないと思っている。

遡ること、10年前の平成26(2014)年、朝日新聞社が9月11日、記者会見を開き、東京電力福島第一原発事故をめぐり政府の事故調査・検証委員会がまとめた吉田昌郎元所長の「聴取結果書(調書)に関する記事を誤りと認め取り消し、木村伊量社長は謝罪をした。また、慰安婦報道についても、8月5日、6日の2日間、自社の慰安婦報道を検証する大特集を行った。30年前から積み重ねてきた吉田清治証言の記事を取り消し、読者向けに「『読者のみなさまへ』吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。最終等を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました」と記している。

この問題を皮切りに、メディアに対する不信感は徐々に広がり、そして、ジャニー喜多川氏の性加害問題に対する各社の報道で既存メディアの報道姿勢、取り扱いに対し、メディアに対する国民の疑義に拍車がかかったかと考える。
2022年に東谷義和がネット配信で問題提起したことにより本格的に表面化したが、その配信後、BBCの報道を皮切りに多くの報道機関が大々的に報道するようになった。旧ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川氏の性加害問題は、60年前から疑惑が指摘され、これまで2度、裁判が行われてきたにも関わらず、BBCで取り上げられた後、世間に幅広くこの問題が明るみになるまでは、メディアはその報道をせず沈黙を守り通してきた。
故ジャニー喜多川氏による所属タレントへの性加害問題が最初に明るみに出たのは、1967年~78年にかけて一世を風靡したジャニーズタレント「フォーリーブス」の故北公次氏が、解散から10年後の1988年に、ジャニー氏から受けた性被害を赤裸々に綴った書籍『光GENJIへ』がきっかけだった。そして、翌年、ビデオでも被害を訴えていたが、メディアは沈黙。今年9月に、TBSがその告白ビデオを入手したとして、放送したが、「今更感」が拭えなかった。そして、メディアの報道に対する責任については、無視できない事実であろうとも考える。当時、日本テレビ「news zero」の有働由美子キャスターは「海外の人権問題は徹底的に批判するのに、もっと近くにあった問題はちゃんと取材して知ろうとしませんでした。なぜ『沈黙』してしまったのか、重く問われているという覚悟のもとに向き合っていきたいと思います」と、メディアの責任について語ったが、私からすれば「何をいまさら」といった感が強かった。その後、各テレビ局がこぞって声明を出したが、どの社も同じように感じるし、苦しい言い訳にしか聞こえなかった。

さらに、今回、共同通信社による生稲晃子参院議員(現外務政務官)の靖國神社参拝報道は、既存メディア不信を加速化した。
共同通信は「2022年8月15日の終戦の日の靖国神社参拝に関する記事で、自民党の生稲晃子参院議員(現外務政務官)が参拝した報じたが、正しくは生稲氏は参拝しておらず、誤った報道でした」と謝罪した。そして、「生稲氏が今月24日、日本政府代表として出席した世界文化遺産「佐渡島の金山」の労働者追悼式に韓国政府関係者が参加を見送ったことに関連した複数の記事でも、生稲氏が参拝したと断定的に報じました。生稲氏が今月24日に参院議員就任後の靖国参拝を否定し、当時の取材過程を調べました。その結果、靖国神社への国会議員の出入りを取材する過程で生稲氏が境内に入るのを見たとの報告がありましたが、本人に直接の確認取材をしないまま記事化したと分かりました。また、当日参拝した複数の自民党議員が共同通信に『生稲氏はいなかった』と述べました。生稲氏が否定したことと併せ、当初の報告が見間違えだったと判断しました。誤った記事は国内外に配信しました。韓国外務省は『生稲議員が22年8月15日に靖国神社を参拝したものと承知している』とコメントしていました。日韓外交に影響した可能性があります。韓国外務省は25日、不参加としたのは追悼の辞の内容などが世界遺産登録に賛成するに当たって日本と合意していた水準に満たないためだったと説明しました」。との内容だ。

既存メディアは、色々と言い訳がましいことを述べるが、そもそもマスコミとは、一定の意図をもって情報を発信している。その一定の意図とは何か。そこを読み解いていかなくてはならない。私は、少なくとも前述する反日マスコミは、「日本を、権力者を貶めようとする意図」を感じるし、そのための都合の良い取材と裏取り、報道を繰り返しているとも感じる。取材費も無いのか、ネットの情報を記事化するマスコミを見受けるが、マスコミの本来の取材は足しげく通って情報を執る取材活動である。それが、本当の意味での取材活動、裏取りを行っているのか疑問に思うし、「一定の意図」のためには取材もせずに報道するなど、『何でもありなのか』とも思う。そういうマスコミの報道姿勢に嫌気を指し、情報を既存メディアから取らずに、SNSから情報を取得するといった者が増えていった気がしてならない。

既存メディアには信頼回復のための本来あるべき取材、裏取りの努力を怠らず、報道して欲しいとは望むが、「一定の意図」が歪んでいるようでは、その期待は遠いものとならざるを得ない。そして、別冊正論12号『朝日新聞・NHKの大罪』で記された、上島嘉郎編集長(当時)の以下の言葉が思い出される。
「昭和20年12月7日、連合国総司令部(GHQ)は新聞各社の代表を集め、彼らが作成した『太平洋戦争史』を示して掲載を命じました。新聞各社は開戦から4年後の翌8日付紙面で一斉に掲載し、朝日新聞はその後も『太平洋戦争史 続編』を連載しました。NHKも『真相はこうだ』というラジオ放送を開始、『真相箱』『質問箱』と名前を変えて昭和23年8月まで約3年間続けられました。新聞社も放送局も、日本人が戦った『大東亜戦争』という呼称は使わず、すべて『太平洋戦争』とし、以降長くマスコミから『大東亜戦争』の言葉は消えることになりました。故江藤淳氏の指摘によって、GHQの占領期間中に日本人がウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)に基づく徹底的な言論統制、情報管理を受けたことは、少なからず知られるようになりましたが、独立回復後半世紀以上を経てもなお、その残滓は色濃い。『その国の新聞(メディア)に影響力を及ぼすことは、数個師団を支配下に置くに等しい』というレーニンの言は今も日本を呪縛しているのではないか。朝日、NHKを見ていると、それを杞憂とやり過ごせない。そんな思いからつくった一冊です」。

片寄ったメディアによってつくられた日本の、戦後レジームからの脱却はまだ先のようである。
2024.11.26 18:11 | 固定リンク | その他
終戦80年に向けて⑧~特攻作戦80年の日に思う
2024.10.26
特攻作戦が敢行されて80年。昭和19年10月25日、日米海軍の主力が激突したフィリピン沖海戦で、関行男大尉率いる敷島隊などの零戦や艦上爆撃機が体当たりし、護衛空母1隻撃沈などの戦果をあげた。第1陣である海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊がフィリピン・レイテ島沖の米艦隊に突入してから80年を迎えた。

特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということ。重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという『必死』条件の作戦であった。
特攻隊員の戦死者は、公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が4,146人、陸軍が2,225人の計6,371人に上る(ただし、資料によっては人数に差異があり、戦死者数は確定されていない)。
特攻作戦の立案者の大西瀧治郎海軍中将自身、この作戦を「統率の外道」と認めていたように戦術として異常である。しかし、何故、特攻作戦をしなければならなかったのか。このブログでも何度も問いかけた。しかし、この特攻を語るに、特攻に殉じた若者、そしてそれを命じた者たちに分けて話をする必要があるというのは、自分の答えの中のひとつである。

「靖國で会おう」「後に続くを信ず」との想いを胸に、国を親兄弟を恋人を故郷を護ろうと出撃し散華された若者たち。軍上層部への不信感を募らせながらも自らが命を懸けると決心して立ち上がった者もいただろう。「命を懸けてでも約束を守ります」とよく政治家が言うが、特攻隊員の方々の想いを知れば知るほど、そう簡単に「命を懸ける」なんて私は言えない。二度とこんなことがあってはならい。10月25日付産経新聞の主張の欄にも書いてあったが、「現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある」と。その通りである。


残された遺族はどんな思いだったのか。

ひとつの手紙を紹介したい。

「天国のあなたへ 秋田県 柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの『きみまち坂』につれていってもらいたい。
 春のあでやかな桜花、
 夏なまめかしい新緑、
 秋ようえんなもみじ、
 冬清らかな雪模様など、
四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね」。

秋田県二ツ井町が主催した1995年2月14日バレンタインデー「第1回日本一心のこもった恋文」大賞に輝いた柳原タケさんが書いたものである。柳原さんは当時80才で秋田市に住んでおられた。この文は靖国神社の遊就館のビデオにも紹介されており、元雑誌「正論」編集長の大島信三氏のブログにもこの文と出合った時の感動が述べられている。

「戦死した夫は三十二歳のままで柳原タケさんの心の中に生き続けています。傘寿(さんじゅ)とありますから、この天国への書簡はタケさんが八十歳のときに書いたものであることがわかります。おそらくタケさん自身もずっと新婚当時の気持ちのままで夫と対話してきたのでしょう。それにしても、なんとも瑞々しい文章です。愛情の継続性に驚嘆します。
同時に、つかの間の新婚生活しか過ごせなかった時代に巡り合わせてしまった不遇にことばもありません。この一文をメモ帳に書き留めていましたら、三人連れの中年女性が立ち止まりました。彼女たちは読み終えたあと、嗚咽しながらその場を離れていきました」。

…言葉にならない…。今、この文を書いていて、涙が溢れてくる…。


かたや特攻を命じた者の想いはどうであったか。

著書『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀著=ノンフィクション作家、写真家)は、著者による聞き書きをもとにして、そもそも特攻とは何か、大西中将の実像とはいかなるものだったのかが、編まれているが、その中の文章が端的に表現されているので、以下引用したい。
「昭和19年11月下旬、部下の特攻機を率いてフィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地に派遣されたさい、大西の右腕である第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐から聞かされた話である。角田はかつて、小田原から計器飛行を教わったことがあった。小田原は、『教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようと言うのに、黙っているわけにはいかない』と、大西から、『参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』と言われていたというその真意を話してくれたのだ。小田原大佐の語った大西中将の真意を、角田は克明に記録している」と。
そして、それは「これ(特攻によるレイテ防衛)は、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。敵に対してはあくまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておかねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員の後を追うであろう」。

…考えさせられる…。

先述の産経新聞「主張」では、以下のように記している。

「特攻は戦後、『軍国主義の象徴』などと批判された。選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。特攻を『カミカゼ』と呼んだ米軍は、異常な戦術とみなす一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。特攻は、世界が日本人を強い存在とみなす一因となり、戦後の日本も守ってくれている。
特攻に赴いた将兵一人一人にさまざまな思いがあったことを想像するとき、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない」。

寺子屋「玉川未来塾」では、今年は「特攻作戦から80年」をテーマにイベントを開催した。そして、来年は「終戦80年」をテーマにイベントを開催する。今日の日本の平和があるのは命を賭して戦ってくれた先人のお陰で、その英霊の尊い犠牲の上に今の平和があるのである。
「特攻を賛美するな」とか「戦争に賛成なのか」などとご批判をいただくことがある。しかし、賛美もしていないし、戦争は絶対に反対である。
そうではなくて、実際に、命を懸けて戦ってくれた先人がいるという事実にスポットを当てた時に、なぜ、その先人に感謝の気持ちを述べることがいけないのか。何故、英霊が祀られている靖國神社を感謝の誠を胸に参拝してはいけないのか。事実を客観的に見ていけば、その答えが、私が行うイベントの「事実」なのであって、誰も何も言えないはずである。英霊への感謝以外の何物でもない。

結びに、先日開催したイベントでお話をいただいたジャーナリストの上島嘉郎元雑誌「正論」編集長からの次代を担う若者たちへのメッセージでいただいた言葉で締めたいと思う。
「ご両親を大事に、無限の希望を持って羽ばたいてほしい。そして、彼らがいたということを忘れないで欲しいし、忘れることは二度殺すことになる。日本の未来は次代を担う若者にかかっているが、それはそれとして、自分の人生をいかに充実させて大切に生きていくかを考えてほしいし、自分の人生を充実させて生きていくことが、どこか日本の国のために役立つこと、自分以外の誰かのために役立てるということを意識して欲しい。思いは繋がっており、自分は一人ではなく、大きな日本人という民族の一人としての存在である」。

心の奥深くに噛み締めたい。
2024.10.26 10:51 | 固定リンク | その他
終戦80年に向けて⑥~特攻の真意とは
2024.08.25
今年は特攻作戦から80年。この年に私は「何故、特攻がなされたのか」を追求すべく、色々な本を読みあさっているが、その中で、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀著=ノンフィクション作家、写真家)、そして『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』(角田和男著=零戦搭乗員・角田和男少尉〈のち中尉〉)の中に、特攻の真意があると感じている。

『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』は、著者による聞き書きをもとにして、そもそも特攻とは何か、大西中将の実像とはいかなるものだったのか、編まれている。
特攻の発想が生まれた経緯。そもそも特攻戦術を発案したのは大西中将ではなかったこと。大西中将がフィリピンに着任して特攻戦術の責任者として任命される前から、特攻戦術はすでに幾度も提案され試作機も作られていたこと。大西中将のフィリピン着任が、太平洋戦争で最後に残された戦局挽回の好機だったレイテ沖海戦の前だったこと。栗田艦隊のレイテ湾突入に際し、敵空母の甲板を使用不能にするため、特攻戦術の発動が要請されたことなど。それらの事実を著者は掘り起こし、丹念に関係者から聞き取ることで特攻や大西中将の実像を浮き彫りにしている。中でも戦時中、大西中将の副官として仕えた門司親徳氏と、特攻の戦果を見届けるのが役目の直掩機に長く搭乗し続けた角田和男氏からは、かなりの時間をかけてお話を伺ったようである。

門田隆将氏も薦めているという『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』は、ソロモンで、硫黄島上空で、決死の戦いを繰り広げ、ついには「必死」の特攻作戦に投入された零戦ベテラン・パイロット、角田和男中尉が綴る記録。
大東亜戦争における撃墜王で、昭和9(1934)年、海軍予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊したときの副長兼教頭が、当時大佐だった大西瀧治郎で、その後、中国大陸で戦ったときも、大西は連合航空隊司令官として角田氏の上官だった。その著書は、克明に記録された内容を元に綴られている。

その中で、先述の神立氏が、詳細に述べている箇所があるので引用し、記したい。

「昭和19年11月下旬、部下の特攻機を率いてフィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地に派遣されたさい、大西の右腕である第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐から聞かされた話である。角田はかつて、小田原から計器飛行を教わったことがあった。小田原は、『教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようと言うのに、黙っているわけにはいかない』と、大西から、『参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』と言われていたというその真意を話してくれたのだ。小田原大佐の語った大西中将の真意を、角田は克明に記録している」と。
そして、それは「これ(特攻によるレイテ防衛)は、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。敵に対してはあくまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておかねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員の後を追うであろう」。


時を経るにつれ、特攻の父と称される大西中将への誹謗は増し、エキセントリックなイメージが独り歩きするが、本書や他の戦史を読む限りでは、大西中将は、敗戦が濃厚になってもなお徹底交戦を唱え続け、果てには「二千万の将兵が特攻すべき」と主張し続けたことに「悪名高き大西中将」の理由がありそうである。しかし、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』を読む限りでは、大西中将がそのような言動に走ったのは内地に戻ってからのようで、特攻の責任者であったフィリピンでの在任時は、温厚で情のある中将でいた様子が伺える。
そして、大西中将が考えていた意志とは、フィリピンの戦いで太平洋戦争に終止符を打つ、ということであったという。「戦争はもはや、搭乗員自らが敵機に突入せねばならないところまできています。陛下、どうか戦争終結の御聖断を!」というのが大西中将の真意ではなかったのではないか。

そして、先程の大西中将の話を裏付ける記事がある。
昭和37年8月9日付の朝日新聞に掲載された、「最後の従軍」という連載記事で、その作者は作家の「山岡荘八」氏。従軍記者をしていた山岡氏は、これから出撃しようとしている西田高光中尉に「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのかどうか?」「もし負けても、悔いはないのか?」「今日の心理になるまでにどのような波があたのか?」など、厳しい質問をした中で、西田中尉は以下のように答えるのである。
「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなど思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです…おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに…」。
こうした証言は、命を賭して戦うことが、ゆくゆくの日本を担う礎となるであろうことを信じていたことだと、物語るものだと思うのである。

先人の想いを継ぐ我々は、この特攻作戦によって命を賭して戦った英霊の想いを継ぎ、これからの日本が良くなるために尽力しなければならないことが、使命である。そして、この特攻作戦で散華した英霊には、「今日の日本の平和があるのは、先人のおかげです、『ありがとうございます』」と感謝の誠を捧げるとともに、これからも、二度と戦争の悲劇が起こらないようにすることは言うまでもないが、戦争体験者が矢継ぎ早に鬼籍に入られる中、正しい歴史や、その真実を知る者が少なくなる中で、こうした現状を鑑みた時に、元軍人から直接聞いた者たちが、率先して誤った歴史が独り歩きしないよう、正しい歴史を次代へ語り継いでいくことが、とても大切であると思ってならない。そして、私もこれからの若者たちにその想いを繋いでいきたいと思う。
2024.08.25 13:14 | 固定リンク | その他
戦後79年目の夏~『神やぶれたまはず』より
2024.08.15
今年もまた、8月15日「敗戦の日」がやってきた。忘れてはならない4つの日の一つである。

「忘れてはならない4つの日」とは。
一つは6月23日「沖縄慰霊の日」
二つは8月6日の「広島原爆の日」
三つは8月9日「長崎原爆の日」
四つは8月15日の「終戦の日」
であり、上皇陛下はこの4つを「忘れてはならない日」として挙げている。

79年前のこの日、正午に昭和天皇による「終戦の詔書」は、ラジオで玉音放送が流れた。
その全文を以下に記したい。

【原文】
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ
朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ  他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ 朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海將兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庻ノ奉公 各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ 終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及 其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ 苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ 爲ニ大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

【現代語訳】
私(昭和天皇)は、世界の情勢と日本が置かれている状況とを深く考えあわせて、緊急の手段をもってこの事態を収めようと思い、私の忠良なる国民に告げる。
私は、わが日本政府をもって、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4か国に対し、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を通告させた。
そもそも、わが国民が平穏に、安らかに暮らせるように心がけ、世界が共に栄えて、その喜びを共有することは、歴代天皇が手本として遺してきた教えであり、私も常にその考えを持ち続けてきた。
アメリカとイギリスに宣戦を布告した理由も、日本の自存と東アジアの安定を心から願ったためであり、他国の主権を排除したり、領土を侵略するようなことは、私の意志とはまったくもって異なる。
この戦争がはじまり、すでに4年が経過した。その間も陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちは職務に励み、一億国民もそれぞれの職域で努力し、最善を尽くしたが、戦局は必ずしもわが方に好転したとは言えず、世界の情勢もまた日本にとって不利である。
それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を(広島、長崎で)使用し、罪なき人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知ることができない。
このような状況でなおも戦争を続ければ、わが日本民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。
そのようなことになれば、私はどうして我が子に等しい国民を守り、歴代天皇の御霊に謝ることができようか。
これこそが、私がポツダム宣言を受諾するようにした理由である。
ポツダム宣言の受諾に至って、私は、日本とともにアジア解放に協力した友好諸国に対して遺憾の意を表明しないわけにはいかない。
日本国民も、戦死したり、職場で殉職したり、不幸な運命で亡くなった人、またその遺族のことを考えると、悲しみで身も心も引き裂かれる思いだ。
戦争で負傷し、空襲などの戦災に見まわれて、家や仕事を失った人たちの生活を考えると、とても心配で胸を痛めている。
これから日本が受けるであろう苦難は、筆舌に尽くしがたいものであろう。国民みなの気持ちも、私はよくわかっている。
けれども私は、時の運命に導かれるまま、耐え難いことにも耐え、我慢ならないことにも我慢して、人類の未来のために平和の実現を計りたい。
私は、ここに国体を護ることができ、忠良なる国民の真心を信頼しつつ、常に国民と一緒にいる。
もし感情のままに、みだりに争いごとや問題を起こしたり、仲間同士で互いを陥れたり、時局を混乱させたりして、人が行うべき道を誤り、世界から信用を失うようなことになれば、それは私が最も戒めたいことだ。
全国民が家族のように一致団結し、この国を子孫に伝え、神国(日本)の不滅を固く信じて、国家の再建と繁栄の任務は重く、その道のりが遠いことを心に留め、持てる総ての力を将来の建設に注ぎ、道義心を大切にし、志を固く守って誓い、わが国の真価を発揮して、世界の発展に遅れをとらないよう努力しなければならない。
国民には、これが私の意志だと、よく理解して行動してほしい。


『神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午』(中央公論新社)の著書、長谷川三千子氏は、この8月15日を「昭和二十年八月のある一瞬-ほんの一瞬-日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコーストのたきぎの上に横たはつてゐたのである」と言う。
「モンテーニュとの対話 『随想録』を読みながら」の産経新聞社文化部で元雑誌正論編集長の桑原聡氏の言葉を借りるならば、《一国の歴史において、ある「特別の瞬間」というものが存在する。その瞬間の意味を知ることは、国の歴史全体を理解することであり、その瞬間を忘却することは、国の歴史全体を喪失することであると、長谷川さんは述べ、その瞬間をよみがえらせ、意味を問い、その答えを得ようとする。戦後日本人の根無し草的な生は、その瞬間を忘却しているからに他ならないからだ。「特別な瞬間」とは、玉音放送が流れた昭和20年8月15日正午のことである。21年生まれの長谷川さんは、「特別な瞬間」に立ち会い、鋭敏な感受性と知性でとらえた折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、太宰治、伊東静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫の言説を丹念に検証し、さらに旧約聖書の「イサク奉献」をめぐるジャック・デリダやキルケゴールの考察を取り上げて、神と人間の根本関係について思索を進める》と語る。
そして、《8月9日、ポツダム宣言受諾をめぐって閣僚会議が開催されるが結論は出ないその夜、御前会議が開かれ、天皇陛下のご判断を仰ぐこととなる。御前会議に同席していた内閣書記官長の迫水常久氏は天皇陛下のこのときのお言葉をこう伝えている。
「このまま戦争を本土で続ければ日本国は亡びる。日本国民は大勢死ぬ。日本国民を救い国を滅亡から救い、しかも世界の平和を、日本の平和を回復するには、ここで戦争を終結する他はないと思う。自分はどうなっても構わない」
かくして天皇陛下は、たきぎの上に横たわっている国民の隣にご自身を横たえたのだ。戦後の日本はそこから出発した。この「特別の瞬間」を忘却のふちからすくい上げ、きちんと意味づけることができない限り、われわれは精神のまひ状態から抜け出すことはできないだろう。》
さらに、
《昭和7年生まれの文芸評論家、桶谷秀昭さんは文庫判の解説にこんな言葉を寄せている。
「私は想像する、近い将来ではないが、いつか、八月十五日正午のあの瞬間が、ノスタルジイとして共有されるとき、戦後日本は決定的な精神の変革をもつであらう。そのとき、あの『あの瞬間』の記憶は、保田與重郎(よじゅうろう)風に言へば、『偉大なる敗北』となるであらう」
『いつか』とは、いったいいつのことだろう。モンテーニュは言っている。
『いつかできることはすべて、今日もできる』》。

今年も、当時の「あのシーンとした国民の心の一瞬」に思いを馳せ、英霊に対し感謝の誠を捧げ、今一度、今日命あるありがたみを感じていきたいと思う。
2024.08.15 07:52 | 固定リンク | その他
終戦80年に向けて④~靖國神社をお支えするということ
2024.07.22
今年は特攻作戦から80年、そして、来年は終戦80年を迎える。昭和から平成、令和と時代が移り、戦争体験者が急速に減っている中、戦後生まれの人口が全体の8割を超え、戦争が「記憶」から「歴史」へと変わりつつある。「かつて日本軍は、アジア諸国を侵略し、略奪するなどをして地元の人々に大変つらい思いをさせたことを今でもアジアの諸国民は恨み続けている」と教えられた間違った歴史を今でも信じ、正しい歴史を知らない世代も少なくないのが現状である。

色々な人がいるし、どんな思想を持とうが、それは個人の自由だが、しかし、今日の平和があるのは、間違いなく先の大戦で命を賭して戦ってくださった英霊のお陰様で、先祖の尊い犠牲があったからこそ、今日の平和があると私は考えている。
戦争で夫を、父親を亡くし、そのために、残された家族はどんな思いをして戦後を生きてきたか。苦労は計り知れないし、戦争を悪とする考え方は当然である。私の亡き父、そして現存の母も同じ思いをして生きてきた世代である。その苦労話は、私も良く聞かされたし、その関係もあり、私自身、昔はリベラル思想の持ち主であった。しかし、1985年以降、大東亜戦争に関する秘密にされた公文書が公開され、そして、今日までに、次々と歴史の真実が明らかにされた。私は、その機会に触れることができ、大東亜戦争が引き起こされた背景には、ソ連コミンテルンなど、日本を米国と戦わせ、日本を貶めようとする者たちがおり、そして、戦争をせざるをえない状況にまで日本を追い詰めた左翼思想の者たちが背後にいたことを知り、「一方的な知識で自己の思想を支配していた」事実に目覚めた。とは言え、当時の日本の指導者たちも良くなかったことも事実ではある。その後、正しい日本の歴史を客観的に見つめることができるようになり、今では、保守の立場で活動をしている。

その活動の中で、毎年、靖國神社を昇殿参拝し、そして、今日の学校教育とは違った視点から歴史を学べる遊就館を見学するイベントを開催している。今年のテーマは「靖國神社と特攻隊」。特攻作戦から80年の今年、勇躍出撃され散華した特攻隊員たちの思いを、我々はどう受け止めて今日を生きていけば良いのだろうか。今の平和があるのは、日本国を、そして家族を、恋人を、故郷を護るために命を賭して戦ってくれた英霊のお陰様。先人に感謝しかないのである。そんな思いを胸に、英霊に感謝の誠を捧げるべく、イベントを開催する。
その内容と詳細、お申し込み方法などは以下のURLよりご覧いただきたい。
https://tamagawa-miraijuku.com/event.html

靖國神社は明治2(1869)年に東京招魂社として創建され、明治12年に現在の名称になり、今年で155年を迎えた。幕末の戊辰戦争以降、国のために戦死した246万余人の霊がまつられており、うち213万人が大東亜戦争の死者の霊である。その靖國神社をお支えしてきたのは、先の大戦で身内を亡くされた遺族の方々。しかし、元軍人の方々の大半は亡くなり、遺族の方々も少なくなってきた現状の中、これからの靖國神社をお支えするのは誰なのであろうか。

平成元(1989)年に刊行された『靖國神社創立百二十年記念特集』で、当時の松平永芳宮司、森田康之助崇敬者総代、高橋史郎明星大学助教授の鼎談の中で、松平宮司が以下のように語っている。
「私は就任した時から今日までそうなんですけど、靖國神社は政府のお金で維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならないんじゃないかと考えています。(中略)少額でもいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお蔭で自分たちの今日があり平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております」と。

「国民総氏子」という考え方。私はこの考え方に多く賛同をする。遺族の方々だけでなく、国民一人ひとりが「氏子」という思いで靖國神社を参拝し、お支えすることが必要であると思うのである。そのお支えできるためにある「崇敬奉賛会」という制度。当然、私も「靖國神社崇敬奉賛会」の会員である。

靖國神社崇敬奉賛会は、日本を愛してやまなかった英霊の弛まぬ努力と切なる想いを、
いついつまでも伝えていきたいと平成10年12月に設立された。靖國神社を大切に思う人々が会員として集い、「やすくにの心」を伝えるため、公開シンポジウム、勉強会・講演会、青少年健全育成事業、奉賛金奉納式英霊顕彰祭などのさまざまな活動を行っている。崇敬奉賛会の活動の目的は、日本人の「心の拠りどころ」である靖國神社の大切さを伝えていくこと、そして「やすくにの心」で日本をつなぎ、「日本らしさ」、「日本人らしさ」を取り戻すことにある。

来年は終戦80年の節目の年。これを機に、「崇敬奉賛会」の会員でない方は是非、会員となってもらいたいと思う。そして、「国民総氏子」の一人として、靖國神社をお支えするためにともに尽力していきたいと思う次第である。
2024.07.22 17:51 | 固定リンク | その他

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