終戦80年に向けて⑧~特攻作戦80年の日に思う
2024.10.26
特攻作戦が敢行されて80年。昭和19年10月25日、日米海軍の主力が激突したフィリピン沖海戦で、関行男大尉率いる敷島隊などの零戦や艦上爆撃機が体当たりし、護衛空母1隻撃沈などの戦果をあげた。第1陣である海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊がフィリピン・レイテ島沖の米艦隊に突入してから80年を迎えた。
特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということ。重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという『必死』条件の作戦であった。
特攻隊員の戦死者は、公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が4,146人、陸軍が2,225人の計6,371人に上る(ただし、資料によっては人数に差異があり、戦死者数は確定されていない)。
特攻作戦の立案者の大西瀧治郎海軍中将自身、この作戦を「統率の外道」と認めていたように戦術として異常である。しかし、何故、特攻作戦をしなければならなかったのか。このブログでも何度も問いかけた。しかし、この特攻を語るに、特攻に殉じた若者、そしてそれを命じた者たちに分けて話をする必要があるというのは、自分の答えの中のひとつである。
「靖國で会おう」「後に続くを信ず」との想いを胸に、国を親兄弟を恋人を故郷を護ろうと出撃し散華された若者たち。軍上層部への不信感を募らせながらも自らが命を懸けると決心して立ち上がった者もいただろう。「命を懸けてでも約束を守ります」とよく政治家が言うが、特攻隊員の方々の想いを知れば知るほど、そう簡単に「命を懸ける」なんて私は言えない。二度とこんなことがあってはならい。10月25日付産経新聞の主張の欄にも書いてあったが、「現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある」と。その通りである。
残された遺族はどんな思いだったのか。
ひとつの手紙を紹介したい。
「天国のあなたへ 秋田県 柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの『きみまち坂』につれていってもらいたい。
春のあでやかな桜花、
夏なまめかしい新緑、
秋ようえんなもみじ、
冬清らかな雪模様など、
四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね」。
秋田県二ツ井町が主催した1995年2月14日バレンタインデー「第1回日本一心のこもった恋文」大賞に輝いた柳原タケさんが書いたものである。柳原さんは当時80才で秋田市に住んでおられた。この文は靖国神社の遊就館のビデオにも紹介されており、元雑誌「正論」編集長の大島信三氏のブログにもこの文と出合った時の感動が述べられている。
「戦死した夫は三十二歳のままで柳原タケさんの心の中に生き続けています。傘寿(さんじゅ)とありますから、この天国への書簡はタケさんが八十歳のときに書いたものであることがわかります。おそらくタケさん自身もずっと新婚当時の気持ちのままで夫と対話してきたのでしょう。それにしても、なんとも瑞々しい文章です。愛情の継続性に驚嘆します。
同時に、つかの間の新婚生活しか過ごせなかった時代に巡り合わせてしまった不遇にことばもありません。この一文をメモ帳に書き留めていましたら、三人連れの中年女性が立ち止まりました。彼女たちは読み終えたあと、嗚咽しながらその場を離れていきました」。
…言葉にならない…。今、この文を書いていて、涙が溢れてくる…。
かたや特攻を命じた者の想いはどうであったか。
著書『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀著=ノンフィクション作家、写真家)は、著者による聞き書きをもとにして、そもそも特攻とは何か、大西中将の実像とはいかなるものだったのかが、編まれているが、その中の文章が端的に表現されているので、以下引用したい。
「昭和19年11月下旬、部下の特攻機を率いてフィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地に派遣されたさい、大西の右腕である第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐から聞かされた話である。角田はかつて、小田原から計器飛行を教わったことがあった。小田原は、『教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようと言うのに、黙っているわけにはいかない』と、大西から、『参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』と言われていたというその真意を話してくれたのだ。小田原大佐の語った大西中将の真意を、角田は克明に記録している」と。
そして、それは「これ(特攻によるレイテ防衛)は、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。敵に対してはあくまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておかねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員の後を追うであろう」。
…考えさせられる…。
先述の産経新聞「主張」では、以下のように記している。
「特攻は戦後、『軍国主義の象徴』などと批判された。選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。特攻を『カミカゼ』と呼んだ米軍は、異常な戦術とみなす一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。特攻は、世界が日本人を強い存在とみなす一因となり、戦後の日本も守ってくれている。
特攻に赴いた将兵一人一人にさまざまな思いがあったことを想像するとき、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない」。
寺子屋「玉川未来塾」では、今年は「特攻作戦から80年」をテーマにイベントを開催した。そして、来年は「終戦80年」をテーマにイベントを開催する。今日の日本の平和があるのは命を賭して戦ってくれた先人のお陰で、その英霊の尊い犠牲の上に今の平和があるのである。
「特攻を賛美するな」とか「戦争に賛成なのか」などとご批判をいただくことがある。しかし、賛美もしていないし、戦争は絶対に反対である。
そうではなくて、実際に、命を懸けて戦ってくれた先人がいるという事実にスポットを当てた時に、なぜ、その先人に感謝の気持ちを述べることがいけないのか。何故、英霊が祀られている靖國神社を感謝の誠を胸に参拝してはいけないのか。事実を客観的に見ていけば、その答えが、私が行うイベントの「事実」なのであって、誰も何も言えないはずである。英霊への感謝以外の何物でもない。
結びに、先日開催したイベントでお話をいただいたジャーナリストの上島嘉郎元雑誌「正論」編集長からの次代を担う若者たちへのメッセージでいただいた言葉で締めたいと思う。
「ご両親を大事に、無限の希望を持って羽ばたいてほしい。そして、彼らがいたということを忘れないで欲しいし、忘れることは二度殺すことになる。日本の未来は次代を担う若者にかかっているが、それはそれとして、自分の人生をいかに充実させて大切に生きていくかを考えてほしいし、自分の人生を充実させて生きていくことが、どこか日本の国のために役立つこと、自分以外の誰かのために役立てるということを意識して欲しい。思いは繋がっており、自分は一人ではなく、大きな日本人という民族の一人としての存在である」。
心の奥深くに噛み締めたい。
特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということ。重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという『必死』条件の作戦であった。
特攻隊員の戦死者は、公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍が4,146人、陸軍が2,225人の計6,371人に上る(ただし、資料によっては人数に差異があり、戦死者数は確定されていない)。
特攻作戦の立案者の大西瀧治郎海軍中将自身、この作戦を「統率の外道」と認めていたように戦術として異常である。しかし、何故、特攻作戦をしなければならなかったのか。このブログでも何度も問いかけた。しかし、この特攻を語るに、特攻に殉じた若者、そしてそれを命じた者たちに分けて話をする必要があるというのは、自分の答えの中のひとつである。
「靖國で会おう」「後に続くを信ず」との想いを胸に、国を親兄弟を恋人を故郷を護ろうと出撃し散華された若者たち。軍上層部への不信感を募らせながらも自らが命を懸けると決心して立ち上がった者もいただろう。「命を懸けてでも約束を守ります」とよく政治家が言うが、特攻隊員の方々の想いを知れば知るほど、そう簡単に「命を懸ける」なんて私は言えない。二度とこんなことがあってはならい。10月25日付産経新聞の主張の欄にも書いてあったが、「現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある」と。その通りである。
残された遺族はどんな思いだったのか。
ひとつの手紙を紹介したい。
「天国のあなたへ 秋田県 柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの『きみまち坂』につれていってもらいたい。
春のあでやかな桜花、
夏なまめかしい新緑、
秋ようえんなもみじ、
冬清らかな雪模様など、
四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね」。
秋田県二ツ井町が主催した1995年2月14日バレンタインデー「第1回日本一心のこもった恋文」大賞に輝いた柳原タケさんが書いたものである。柳原さんは当時80才で秋田市に住んでおられた。この文は靖国神社の遊就館のビデオにも紹介されており、元雑誌「正論」編集長の大島信三氏のブログにもこの文と出合った時の感動が述べられている。
「戦死した夫は三十二歳のままで柳原タケさんの心の中に生き続けています。傘寿(さんじゅ)とありますから、この天国への書簡はタケさんが八十歳のときに書いたものであることがわかります。おそらくタケさん自身もずっと新婚当時の気持ちのままで夫と対話してきたのでしょう。それにしても、なんとも瑞々しい文章です。愛情の継続性に驚嘆します。
同時に、つかの間の新婚生活しか過ごせなかった時代に巡り合わせてしまった不遇にことばもありません。この一文をメモ帳に書き留めていましたら、三人連れの中年女性が立ち止まりました。彼女たちは読み終えたあと、嗚咽しながらその場を離れていきました」。
…言葉にならない…。今、この文を書いていて、涙が溢れてくる…。
かたや特攻を命じた者の想いはどうであったか。
著書『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀著=ノンフィクション作家、写真家)は、著者による聞き書きをもとにして、そもそも特攻とは何か、大西中将の実像とはいかなるものだったのかが、編まれているが、その中の文章が端的に表現されているので、以下引用したい。
「昭和19年11月下旬、部下の特攻機を率いてフィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地に派遣されたさい、大西の右腕である第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐から聞かされた話である。角田はかつて、小田原から計器飛行を教わったことがあった。小田原は、『教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようと言うのに、黙っているわけにはいかない』と、大西から、『参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』と言われていたというその真意を話してくれたのだ。小田原大佐の語った大西中将の真意を、角田は克明に記録している」と。
そして、それは「これ(特攻によるレイテ防衛)は、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。敵に対してはあくまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておかねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員の後を追うであろう」。
…考えさせられる…。
先述の産経新聞「主張」では、以下のように記している。
「特攻は戦後、『軍国主義の象徴』などと批判された。選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。特攻を『カミカゼ』と呼んだ米軍は、異常な戦術とみなす一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。特攻は、世界が日本人を強い存在とみなす一因となり、戦後の日本も守ってくれている。
特攻に赴いた将兵一人一人にさまざまな思いがあったことを想像するとき、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない」。
寺子屋「玉川未来塾」では、今年は「特攻作戦から80年」をテーマにイベントを開催した。そして、来年は「終戦80年」をテーマにイベントを開催する。今日の日本の平和があるのは命を賭して戦ってくれた先人のお陰で、その英霊の尊い犠牲の上に今の平和があるのである。
「特攻を賛美するな」とか「戦争に賛成なのか」などとご批判をいただくことがある。しかし、賛美もしていないし、戦争は絶対に反対である。
そうではなくて、実際に、命を懸けて戦ってくれた先人がいるという事実にスポットを当てた時に、なぜ、その先人に感謝の気持ちを述べることがいけないのか。何故、英霊が祀られている靖國神社を感謝の誠を胸に参拝してはいけないのか。事実を客観的に見ていけば、その答えが、私が行うイベントの「事実」なのであって、誰も何も言えないはずである。英霊への感謝以外の何物でもない。
結びに、先日開催したイベントでお話をいただいたジャーナリストの上島嘉郎元雑誌「正論」編集長からの次代を担う若者たちへのメッセージでいただいた言葉で締めたいと思う。
「ご両親を大事に、無限の希望を持って羽ばたいてほしい。そして、彼らがいたということを忘れないで欲しいし、忘れることは二度殺すことになる。日本の未来は次代を担う若者にかかっているが、それはそれとして、自分の人生をいかに充実させて大切に生きていくかを考えてほしいし、自分の人生を充実させて生きていくことが、どこか日本の国のために役立つこと、自分以外の誰かのために役立てるということを意識して欲しい。思いは繋がっており、自分は一人ではなく、大きな日本人という民族の一人としての存在である」。
心の奥深くに噛み締めたい。