森田正馬に学ぶ
2023.03.31
速いもので令和4年度も終えようとしている。
多忙を極めていた会社員時代、無理がたたり、心が風邪をひき、会社を早期希望退職してから早3年が経過し、4年目の季節を迎えている。
主治医からドクターストップがかかり、休職をし、その後、ドクターストップは継続され、退職するのにも必要な引き継ぎもままならぬ中、お世話になった方々へのご挨拶も失礼をしてしまった。
しかし、退職後、体調が少しづつ快復をした時に、私が正論大賞贈呈式、そして土光杯弁論大会を担当し、正論大賞受賞、そして土光杯弁論大会の審査委員長をお勤めいただいた、渡辺利夫拓殖大学顧問にご挨拶をさせていただいた時のことである。
心の病を打ち明け、そしてお世話になったことの御礼を申し上げた際に、一冊の本を手渡してくれた。『神経症の時代―わが内なる森田正馬』。渡辺利夫先生のご著書である。
その日は、夕食を共にし、色々な話をすることができた。その際に言われた言葉を今でも思い出す。「鬱病とは言わない方が良いですよ。鬱は病気ではない、神経症なのです」。その時はそのお話にピンと来なくて、その後の渡辺先生のお話に聞き耳を立てて注意深く聞いたことを覚えている。渡辺先生の人生経験の中から、心の病に倒れた私を気遣ってくれ、そして、読み薦めてくださった一冊なのである。
この本は、「不安、恐怖が強いということは、その分だけ『生の欲望』が強いことの反映であり、それをはからわず、生の欲望にしたがって『あるがまま』に受け取れば、不安恐怖は自ずと力を失っていく」暖衣飽食のバブル経済が失速し、強度の国民的神経症に陥りつづけるこの時代を、いかにして生きるべきか。自己の内面と徹底的に対峙することによって、作家・倉田百三ら多くの神経症者を救った森田正馬の人間観、死生観を通して、現代人が抱える心の闇に鋭く斬り込んだ開高健賞受賞作である。
森田正馬(もりたまさたけ)とは如何なる人物なのか。
1874〈明治7)年1月18日高知県野市町(現・香南市)生まれ。日本の医学者、精神科神経科医。(森田)神経質に対する精神療法である「森田療法」を創始した。
高知県立第一中学、第五高等学校、東京帝国大学医科大学を卒業。東京帝国大学では呉秀三門下。巣鴨病院に勤務。根岸病院顧問(1906-29)。東京慈恵会医科大学教授を務める。自らも神経質に悩んだ経験を持つ。精神分析学には批判的であり、東北帝国大学教授丸井清泰と論争を行った。心理学、法学、経済学についても精通していたといわれる。1938(昭和13)年4月12日没。享年64歳。
前述の著書で「森田正馬の療法思想」を一語でいいあらわすならば「あるがまま」であると記述されている。それは、「恐怖、不安の感情は、おこるべき時期と境遇に応じて必然的におこるものであって、心のやりくりでこれをどうこうすることはできない。どんなにつらくはあれ、そうした感情のあるがままに身をゆだね、そうして人生の目的に向かって不断の努力を続けるならば、人間の精神は外科医の変化に応じてしだいに流動を開始し、恐怖、不安は消滅していく。人間の心のありようを正馬はそう見据えて、神経症の心を転じるための療法を創案したのである」と。
さらに「森田正馬は『不安常住』といい、森田の高弟の高良武久は『人間は不安の器だ』ともいう。神経症とは、不安や恐怖を誰にもありうる当然の心理として、これを『あるがまま』に受け取ることができず、不安と恐怖を『異物視』し、排除しようと努め、はからい、そのためにますます強く不安と恐怖に囚われ、抑鬱と煩悶に貶められた人々のことである」とも。
森田療法の核心は、死の恐怖とはすなわち生の欲望の反面であることを症者にありありと認めさせ、そうして生の欲望に素直に身を任せて人生を送る態度にめざめさせることにある。死への不安と恐怖とを共存しながら、自己の目的に沿うて生を織り紡いでいかなければならないことにある。
鬱に陥っていた私が、それを早期に克服できたのも、この本に出合えたことも要因の一つである。
それは、あるがままの自分を受け入れ、自分の歩みたい道をあるがままに歩み続けた結果でもある。
自分の心と常に向かい合い、語り合い、自分に嘘をつくことなく、素直な心であり続けたからこそ、今の自分が存在する。
これからも「あるがまま」に人生を歩んでいきたい。年度末を迎えた今日、改めてそう思った次第でる。
多忙を極めていた会社員時代、無理がたたり、心が風邪をひき、会社を早期希望退職してから早3年が経過し、4年目の季節を迎えている。
主治医からドクターストップがかかり、休職をし、その後、ドクターストップは継続され、退職するのにも必要な引き継ぎもままならぬ中、お世話になった方々へのご挨拶も失礼をしてしまった。
しかし、退職後、体調が少しづつ快復をした時に、私が正論大賞贈呈式、そして土光杯弁論大会を担当し、正論大賞受賞、そして土光杯弁論大会の審査委員長をお勤めいただいた、渡辺利夫拓殖大学顧問にご挨拶をさせていただいた時のことである。
心の病を打ち明け、そしてお世話になったことの御礼を申し上げた際に、一冊の本を手渡してくれた。『神経症の時代―わが内なる森田正馬』。渡辺利夫先生のご著書である。
その日は、夕食を共にし、色々な話をすることができた。その際に言われた言葉を今でも思い出す。「鬱病とは言わない方が良いですよ。鬱は病気ではない、神経症なのです」。その時はそのお話にピンと来なくて、その後の渡辺先生のお話に聞き耳を立てて注意深く聞いたことを覚えている。渡辺先生の人生経験の中から、心の病に倒れた私を気遣ってくれ、そして、読み薦めてくださった一冊なのである。
この本は、「不安、恐怖が強いということは、その分だけ『生の欲望』が強いことの反映であり、それをはからわず、生の欲望にしたがって『あるがまま』に受け取れば、不安恐怖は自ずと力を失っていく」暖衣飽食のバブル経済が失速し、強度の国民的神経症に陥りつづけるこの時代を、いかにして生きるべきか。自己の内面と徹底的に対峙することによって、作家・倉田百三ら多くの神経症者を救った森田正馬の人間観、死生観を通して、現代人が抱える心の闇に鋭く斬り込んだ開高健賞受賞作である。
森田正馬(もりたまさたけ)とは如何なる人物なのか。
1874〈明治7)年1月18日高知県野市町(現・香南市)生まれ。日本の医学者、精神科神経科医。(森田)神経質に対する精神療法である「森田療法」を創始した。
高知県立第一中学、第五高等学校、東京帝国大学医科大学を卒業。東京帝国大学では呉秀三門下。巣鴨病院に勤務。根岸病院顧問(1906-29)。東京慈恵会医科大学教授を務める。自らも神経質に悩んだ経験を持つ。精神分析学には批判的であり、東北帝国大学教授丸井清泰と論争を行った。心理学、法学、経済学についても精通していたといわれる。1938(昭和13)年4月12日没。享年64歳。
前述の著書で「森田正馬の療法思想」を一語でいいあらわすならば「あるがまま」であると記述されている。それは、「恐怖、不安の感情は、おこるべき時期と境遇に応じて必然的におこるものであって、心のやりくりでこれをどうこうすることはできない。どんなにつらくはあれ、そうした感情のあるがままに身をゆだね、そうして人生の目的に向かって不断の努力を続けるならば、人間の精神は外科医の変化に応じてしだいに流動を開始し、恐怖、不安は消滅していく。人間の心のありようを正馬はそう見据えて、神経症の心を転じるための療法を創案したのである」と。
さらに「森田正馬は『不安常住』といい、森田の高弟の高良武久は『人間は不安の器だ』ともいう。神経症とは、不安や恐怖を誰にもありうる当然の心理として、これを『あるがまま』に受け取ることができず、不安と恐怖を『異物視』し、排除しようと努め、はからい、そのためにますます強く不安と恐怖に囚われ、抑鬱と煩悶に貶められた人々のことである」とも。
森田療法の核心は、死の恐怖とはすなわち生の欲望の反面であることを症者にありありと認めさせ、そうして生の欲望に素直に身を任せて人生を送る態度にめざめさせることにある。死への不安と恐怖とを共存しながら、自己の目的に沿うて生を織り紡いでいかなければならないことにある。
鬱に陥っていた私が、それを早期に克服できたのも、この本に出合えたことも要因の一つである。
それは、あるがままの自分を受け入れ、自分の歩みたい道をあるがままに歩み続けた結果でもある。
自分の心と常に向かい合い、語り合い、自分に嘘をつくことなく、素直な心であり続けたからこそ、今の自分が存在する。
これからも「あるがまま」に人生を歩んでいきたい。年度末を迎えた今日、改めてそう思った次第でる。