忘れ去られた日本人の気概
2021.04.01
期末、月末、年度末の3月31日、とある会合で「忘れ去られた日本人の気概」という演題で、約60分間、お話をさせていただきました。
その内容を、一部加筆修正してアップしたいと思います。

令和元年11月末に約30年勤めた産経新聞社を退職し、その後、病んだ体を休ませるため、ゆっくりとした時間を過ごしてきました。当然、テレビやワイドショー、新聞報道などを観ることもありました。しかし、その内容に愕然としたことを思い出しますし、「これはどうなんだろう?」と考えてしまうこともあります。

いくつかありますが、特に次に話す3つに視点を向けていきたいと思います。
①長引くコロナ自粛に伴う差別的な報道
緊急事態宣言の解除に伴い、人々は夜の街や花見に繰り出し、マスクを外して楽しむ光景を目にしますが、感染拡大の原因は「飲食業界」であるかのような、取り上げ方をし、その結果、飲食業界、そして旅行業界は大打撃。「飛沫拡散」が問題であるのに。そして、本来は免疫力を高め、十分な睡眠や食生活など、ウイルスに負けない体づくりを心掛けることが大切であるのに。そして、各自の不十分なコロナ対策であるかもしれないのに、飲食業界が悪者であるかの報道や政府の対応に疑義を感じます。
そういった、コロナ陽性者の報道を毎日目にし、その陽性者や医療従事者への差別対応など、偏見に満ちた見方をするSNSの投稿も減ってきたとはいえ、なくならない現実も目の当たりにします。
②窃盗やあおり運転など、迷惑を顧みない「自己欲求」だけを満たす行為
コロナ自粛を理由に、生活ができないとして、窃盗を働く報道も目にするようになりました。それだけでなく、放火や殺人、あおり運転など、自己の欲求を満たすための、自己都合による行動が多くなった気がします。
「自分本位」「自己都合」といった考え方がコロナ自粛で沸騰し、そして、世の中はそれに満ちているかの如く、さらには、「自分は悪くない。悪いのは国や社会、人のせいにして「自分本位」「自己都合」を正当化する発言、特に国会等、自分を棚にあげて、人を批判する光景は観ていて腹立たしく感じる次第です。
③特定の意図を持ったマスコミ報道
コロナ感染者=陽性者であって「暴露=体内に入ること」者ではない。中には本当に感染者もいるかもしれないが、確実な根拠は示していない報道に対し、いつも「?」です。
また、森元首相の「女性蔑視」発言について。全文を紹介せず、切り取った箇所だけを取り上げ、人権問題かの如く森氏への個人攻撃を加速させる報道の在り方に正直、「マスコミは死んだ」と思った次第です。
「報道の自由」を武器に、履き違えられた「自由」を振り上げるオールドメディアに対し、正しく事実を報道することが使命であるにもかかわらず、「報道しない自由」があるとして、真実を伝えなかったり、事実を歪曲して伝えるマスコミの在り方に報道の信頼性の欠如が目に余る光景に「何を信じれば良いのか」とも思ったりします。

自分勝手に振る舞い、我欲にまみれた現代社会に都合よく生きる日本人(もしかしたら日本人ではないケースもあるかもしれません)が増えた現状、そして特定の意図を持ち、間違った「自由」を振りかざすオールドメディアに関して、私なりの考えをお話したいと思います。

以上を考えた中で、一番に思うことは「戦後日本の在り方」についてです。

戦後の日本を形成したのは、GHQによる「WGIP(「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」)の結果であると私は思っています。
二度と米国に歯向かうことを許さない、激しい言葉で言うなれば、日本人の精神を粉々にしてきた計画で、その残していた毒が、日本社会の奥深くまで根ざし、政治、財界、官僚、司法、教育その他言論界の多くの日本人の思考を今も縛りつけていると私は考えています。
特に教育業界は深刻であると私は思っており、学校教育、とりわけ学校運営のみならず、教師の質もさることながら(素晴らしい先生はたくさんいるのも事実ですが…)、教師が作成する資料が多いため、子供たちと向かう時間が激減。さらには、放課後の教師のクラブ活動も義務ではないとのことから、顧問の先生がいないからと言って、バレー部やバスケットボール部などの主流クラブもなくなるといった現状も増えているのを見聞きします(それを補うため三鷹市は「部活動指導員」という地方公務員法第22条の2第1項第1号に掲げる会計年度任用職員制度を設けています)。
しかし、その教育業界にも平成18年に教育基本法が改正され、明るい兆しも見えています。

その主な特色は以下の通り。
1.目標達成型教育
2.愛国心、道徳心の育成が新たな教育目標に明記
3.義務教育の目的
4.体系的・組織的な学校運営
5.教師の使命と職責
6.家庭教育の重視
7.宗教教育の重視
8.教育水準の維持
9.行政責任の明確化
10.教育振興基本計画の策定{教育の目的}
特に、「愛国心、道徳心の育成が新たな教育目標に明記」され、「宗教教育の重視」=地元や地域の神社仏閣を学び、しいては今までの靖國神社に対する考え方も再構築する内容だと考えます。

戦後、未曽有の経済復興を成し遂げたのは、戦前戦後を生き抜き、明治人の気概を継承した大正人であると正論調査室勤務時代、主催した「正論シネマサロン」で取り上げた上映映画「永遠の〇」や「海賊と呼ばれた男」上映後、講演していただいた百田尚樹氏の言葉が今でも忘れられません。
「海賊と呼ばれた男」の主人公は出光興産の創業者「出光佐三」。戦前、戦後、日本国民のに尽力した「日章丸事件」。高騰する石油市場改善のため、日本国民のために国交もなかったイランに命の危険もある中でオイルを買い付けに行くのだが、その強い覚悟をもった「気概」は「明治の精神」によるものだと自分は考えます。

江戸時代が終わり、明治維新を遂げ、明治時代が形成されます。そこには大久保利通、西郷隆盛、伊藤博文、福沢諭吉、陸奥宗光、小村寿太郎などなど、先人たちの血のにじむ努力と、そして色んな対立があった中でも、「国を護るという『強い覚悟』」の後に、明治維新が確立されたのであると思うのです。

明治34年生まれの俳人・中村草田男が「昭和6年30歳の時に、母校・青南小学校を約20年ぶりに訪れた際に次の句を詠んでいます。
「降る雪や 明治は遠く なりにけり」
この句のもつ意味を探ると、昭和42年5月、明治神宮の社報『代々木』に「『明治は遠く・・・の句に就いて』という巻頭随想を寄せているのですが、そこで次のように書いています。

「私は青南小学校(子供のころに通った小学校)において貴重な消えることのない根本精神を教え込まれ植え付けられたのである。それは『恥を知れ』という一精神であった。それは直ちに以て『明治の精神』と唱えることができよう」と。
遠くになったと感じたのは「明治」という時代の「精神」だった。自ら「明治人」としての誇りがこの句に込められていたのだと感じます。帝國主義全盛の時代に、まったく新しい国につくりかえることにより、西欧列強の侵略からまぬかれることが出来たのは「奇跡」ともいえる快挙であったことは間違いなく、それを実現したのは中村草田男が誇りとする「明治の精神」であり、また明治人たちの「気概」だった。

「恥を知る」とはどういうことなのか。
かつてルース・ベネディクトは『菊と刀』の中で、欧米の「罪の文化」と日本の「恥の文化」を対比した。キリスト教文明の欧米では、行為の規範には戒律に反することに向けた罪の意識があるが、宗教的戒律の存在しない日本では、世間や他人の目を気にする恥の意識があると述べました。つまり、欧米では自己の内なる良心に従って行動するが、日本では、周囲の感情や思惑に従って行動するというのである。
しかし、社会学者の作田啓一は、日本でいうところの「はじ」には、人前で嘲笑されたときの「恥辱(ちじょく)=はずかしめ」ばかりではなく、人前でほめられたときにも覚える「羞恥(しゅうち)=恥ずかしく感じる気持ち」があると述べている。日本人は、他者からの注目を集めることをした際に、はじらいを覚えるのである。と述べています。そして「自己の属する集団の価値基準とは異なる、より広い集団の価値基準に従って行為したことで、周囲の注目にさらされる。そのとき日本人は、所属集団のウチとソトの志向の不一致に気づくとともに、その狭間で揺れ動く自己の弱さを自覚することになる。そのとき「羞恥」の感情は引き出される。その意味で日本人も、たんに周囲の規範に従って行動するのではなく、自分の内面化された優劣の観念に従っていることが少なくない」。
重要なのは、この点にある。「恥」の意識は、必ずしも悪いものではないということであり、「恥を知れ」と言われた側の心理に「恥を知る」心の移り変わりはどうであろうか。

先般「映画『二宮金次郎』上映&講演会」を開催し、二宮金次郎が唱える「報徳」の精神が大切であると考えました。
「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の実践により、人は初めて物質的、精神的に豊かになる、そう考えたのです。

全国のたいていの公立小学校では、玄関横に背中に薪を背負い、本を読みながら歩いている二宮金次郎の石像が立っていました。勤勉の大切さや、勉強はやる気があればできることを子供たちに教えるのがこの像の目的でしたが、その二宮金次郎の像は年々姿を消しています。また、「歴史教科書から坂本龍馬ら45人の偉人が消える⁉」というニュースが報道されました。減りゆく金次郎像とともに本来日本人が大切にしてきた“何か”が失われつつあるのではないかと感じずにはおられません。
二宮金次郎は、生涯600余の農村の復興に成功しました。それは「勤労(よく働く)」「分度(節度ある生活)」「推譲(人の為になる)」の実践でした。その考え方は、渋沢栄一、豊田佐吉、松下幸之助、土光敏夫、稲盛和夫など多くの経営者や日本人に語り継がれてきました。しかし、このコロナ禍において自分勝手に振る舞い、そして我欲にまみれた現代社会に都合よく生きる日本人が増えている現状を見るにつけ、改めて二宮金次郎が実践した「分度」「至誠」「積小為大」など、その生涯において最も大切にした「報徳」の精神が今の日本人にとって大切なことのひとつだと考えます。そして、二宮金次郎が提唱する「報徳」とは如何なるものかを学び、忘れ去られた日本人の心を呼び戻す機会とするため、今回のイベント開催にいたりました。

しかし、それだけでは何の解決にもならない。
では、どうするか。
「道徳教育の実践」が大切なのではないかと考えるのです。

まず、「人間は一人では生きられないということを自覚する。集団に属し、集団に守られ、支えられ、生活を営んでいる。その中で基礎的な集団の最小単位である「家庭」が揺らぎ、最大単位である「国家」が揺らいでは、安心も平和も幸福もない。しかし、それらが心のよりどころである」。
しかし、戦後、GHQによる戦後政策で「民主主義」という名のもとに、あらゆる場面で家庭や国家よりも「個人」を優先するようになりました。だが、自由、平等、反戦・平和、人権など、いくら叫んだところで、この二つの基盤がぐらついては、かえって個人の生活がおびやかされると思います。
たしかに戦後、日本は民主主義のもとに繁栄を謳歌してきました。民主主義が唱えるものは自由であり、平等です。しかし、自由を履き違え、他を顧みないで気まま、わがまま、自分勝手に振る舞ったとしたら、そのような社会に平等は存在しないと考える。他者への配慮と責任感を伴わない自由、義務を尽くした人と尽くさない人とを同じように見る平等観は、本来の民主主義とは言えないのではないかと思うのです。
(参考文献=『国家と道徳』廣池幹堂著)

道徳教育の実践をするにあたり、改めて「教育勅語」を考えてみたいと思います。
1.親に孝養をつくしましょう(孝行)
2.兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)
3.夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)
4.友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)
5.自分の言動をつつしみましょう(謙遜)
6.広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)
7.勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)
8.知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
9.人格の向上につとめましょう(徳器成就)
10.広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)
11.法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
12.正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)
今日、生活するのに当たり前のことが書いてあるにもかかわらず、GHQの戦後政策により「剥奪」された「明治の精神」を実践していくことはとても大切であり、道徳教育にも取り入れることは大事なことであるかと思います。

そのためには「自らが『リーダー』となり、行動におこし、実践して結果をつくっていくことだと思うのです。

道徳教育の実践=学校教育と頭に浮かびますが、学校教育には頼りきれない現実もあると私は思います。
・教師の資質の問題、業務過多
・教師も一個人という考え方(自分の家庭もある)
・変な意味での「自由」
・子供の価値観、行動の多様化、対応
家庭教育の不名誉な実態
・深刻なネグレクト
・しつけという名のもとのハラスメント
・家庭教育を学校教育に押し付ける親の実態
家庭教育は「親が変わらないと子供も変わらない」というのが答えであり、色んな理由を見つけては、自分のこととしてとらえない者もいるのが実際です。

そうしたならば、現状を把握し、どうフォローできるか
PTCAという取り組みも1つであると考えます。

PTCAとは、Parent(親) Teacher T (先生) Community C (地域)Association A (会) の頭文字をとったもので、PTAに地域住民(Community)が加わった「親と教師と地域住民の会」のことで、地域住民が、学校教育に外側からの支援をするだけではなく、地域の子どもたちは地域で育てるという「共育」の気持ちを大切にします。学校・家庭・地域社会の三者が、子どもの教育について緊密に連携した組織がPTCAです。
PTCA活動推進のポイント(新潟県の例)
(1) 第一に、学校・家庭・地域社会が目標を一つにすること
目標を一元化することで、一体となった共育を行うことが可能となります。
(2) 第二に、学校が地域拠点となること
学校が中心になるのではなく、学校が拠点であるという点を大切にします。子どもの教育を学校が中心となって負うということではなく、いわば学校を地域教育センター的なものとして捉えることです。
(3) 第三に、PTAを母体として組織化させること
学校と家庭、学校と地域社会を結び教育活動を充実させる取組は以前から行われていました。それを発展させ、学校・家庭・地域社会の三者が、子どもの教育について緊密に連携し、組織的に支援活動を行います。その際はPTAを母体として、無理のない、各地の実情に応じた組織づくりを大切にします。

これらのことを考えていく中で、この、寺子屋「玉川未来塾」はその一助として活動していこうと考えるのです。
次代の担うリーダーを、若者を育成するため、そして、日本の文化・伝統、、正しい歴史観・国家観を継承していくため、尽力していこうと思います。

最後に、「国のせい、社会のせい、人のせいなど「誰かのせい」にしている限り、日本は良くならない」。これが結びの言葉です。

参考までではありますが、元上司でありました、ジャーナリストの上島嘉郎氏が公式チャンネル「ライズアップジャパン」にとても重要な指摘があり、私自身も賛同する内容です。以下のURLよりご覧いただきますと幸いです。
https://youtu.be/NKWc5jLf92g
2021.04.01 12:11 | 固定リンク | その他

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