戦後76年目にして思う
2021.08.03
早いものでもう8月。1年の2/3を迎えた。
連日、東京五輪の日本人選手の活躍に、興奮の毎日という読者も少なくないだろう。そして、それとは関係なく、今年も日本にとっての「敗戦の日」を迎える。
8月15日を「終戦記念日」とマスコミはこぞって報道するが、私は「敗戦の日」と言っている。日本にとって大東亜戦争に負けた屈辱の日であって、「記念日」と呼ぶのは遺憾であるためだ。
この時期になると、マスコミはこぞって靖國神社への公式参拝問題を取り上げる。「公人としてですか?私人としてですか?」と閣僚他国会議員が参拝するとそう質問し、そして左翼勢力は中韓両国の反発を取り上げ糾弾する。それこそ、宗教を否定し、信仰を禁じている中国共産党とは、まして神道について話し合う性質のものではなく、国の主権と誇りを堅持して毅然として対応すべきものであるにも関わらず、政府は「遺憾砲」を唱えるだけ。毎年のことであるため、うんざりする。
靖國神社参拝問題を論じるに、よく、戦争戦犯である「いわゆるA級戦犯」が祀られているから問題だという者がいるが、「いわゆるA級戦犯」は東京裁判史観に基づく名称であって、国際法上、問題視される大東亜戦争戦勝国が付けた呼称である。「東京裁判史観」に毒された左翼勢力の言い分であって、「A級」とか「B・C級」とか関係ない。歴史は今の価値観で物事を見るのではなく、その当時の目線に落とし込んで見なければ、正しい解釈などできるはずもない。問題ある東京裁判史観による戦勝国の価値観で歴史を見るものでもない。
靖國神社は東京招魂社の名称で、明治天皇のご発意により明治2年(1869)年6月29日に創建された。明治12年に現在の名称となった。幕末の戊辰戦争以降、国のために戦死した246万余柱の霊が祀られており、うち、213万人が大東亜戦争の死者の霊だ。明治天皇は明治7年1月27日、初めて東京招魂社へ行幸され、「我国の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉垣」という御製を詠まれている。国のために尽くした人々の御霊は、国が末永くお祀りすべきであるというのが明治天皇のご意向であったかと思う。しかし、この思いとは裏腹に、8月15日になると、マスコミは「国会議員が靖國神社を参拝しました」と穿った報道を行う。今日の平和があるのは、先の大戦で戦ってくれた先人のおかげであるのに。その先人を敬い、参拝することが、どうしていけないことなのか。不思議でならない。そして、筆者はこれらの報道を毎年、「アホか」と思ってみている。
歴代首相のほとんどが8月15日に、靖國神社に参拝してきたが、昭和60(1985)年8月15日の中曽根康弘首相参拝以降、「敗戦の日」の参拝は途絶えたままである。櫻井よしこ氏は、『異形の大国 中国』で、以下の通り記している。
「ここで想い出すのは中曽根康弘氏だ。氏は首相在任時の85年、靖國神社公式参拝を中国に非難され、翌年から参拝を止めた。氏はその理由を、胡耀邦党総書記の失脚を避けるためと説明した。良好な日中関係を築こうとした胡総書記の足を引っ張らないために、胡批判の材料とされかねない日本国首相の靖国神社参拝は中止するのがよいと、中曽根氏は決断したというのだ。だが、権力争いにおいて政敵を葬り去る口実など、山程作り出せるものだ。中曽根氏の配慮などなんの役にも立たず、胡総書記は失脚、そして中国は今日に至るまで靖国カードを握るに至った。中曽根氏は明らかに判断を間違えたのである。そして今もその間違いの延長線上に立ち、靖國に代わる施設を建立せよと説く。政治家が自国の国益を二の次にして他国の国内政治の片方の勢力に力を貸した結果がこれである」と。
中曽根首相は悪しき前例を作り出した張本人であるといっても過言でない。この行為が、中韓両国の日本批判を助長させた引き金であった。
私自身、毎年8月に「靖國神社昇殿参拝、遊就館見学」イベントを個人で開催している。もし、自分の先祖が過去の戦争で亡くなっていたならば、今ここに自分は存在していない。今ここに存在しているのは、自分の先祖の代わりに命を捧げて戦ってくれた先人のお陰様である。自分の祖父も大東亜戦争で満州の最前線で戦った一人である。祖父が生き長らえたからこそ今、自分は存在する。自分の先祖を供養することはもちろんだが、それ以上に先人に感謝することはとても大切なことであると考えている。先祖のお陰様で「日本人としての私が存在し、日本という国がある」のと思うからだ。これらを実感し、歴史は先祖がつくった日本という国の「国づくり」の歩みであり、私達は先人の尊い、膨大な数の「命のバトン」を受け継いで、今ここに生きていることを認識すべきだと考える。
そのような思いから、本イベントを平成28年から実施している。国のために尊い命をささげた先祖を弔い、心から平和を祈る戦没者慰霊の中心施設である靖國神社に昇殿参拝し、英霊に感謝をして、そして遊就館を見学することによって今日の学校教育とは違った視点から歴史を学ぶことを目的に今年も8月21日(土)に実施する。そして、靖國神社職員による「英霊と沖縄戦」と題した講演をしていただくこととしている。プロパガンダに毒された沖縄の歴史ではなく、また違った角度で語る歴史の真実を聞くことができる。
今日の平和があるのは先の大戦で戦ったくれた英霊のお陰様。その英霊に感謝の気持ちを述べない国会議員に疑問を感じるのは私だけであろうか。
ここで、以下を紹介したい。
謹啓
初春の候と相成り、その後、御両親様には、お変りなくお暮しのことと思います。
お父さん、お母さん、喜んで下さい。
祖国日本興亡のとき、茂も待望の大命を拝しました。
心身ともに健康で、任務につく日を楽しみに、日本男児と、大橋家に、父と母の子供と生まれた喜びを胸に抱いて、後に続く生き残った青年が、戦争のない平和で、豊かな、世界から尊敬される、立派な、文化国家を再建してくれる事を信じて、茂は、たくましく死んで行きます。
男に生まれた以上は、立派な死に場所を得て大空の御盾となり、好きな飛行機を、我が墓標と散る覚悟であります。
親より先に死んで、親孝行出来ない事をお許し下さい。
お父さん、お母さん、長生きして下さい。
お世話になった皆様方に、宜しくお伝え下さい。
この便りが最後になります。
昭和二十年三月二十四日 遠き台湾の特攻基地より 茂
父上様 母上様
身はたとえ 南の空で果つるとも とどめおかまし 神鷲の道
大命を拝して十八歳 茂
これは、18歳で台湾から特攻で出撃していった大橋茂命がご遺書としてご両親に宛てた手紙である。
「後に続く生き残った青年が、戦争のない平和で、豊かな、世界から尊敬される、立派な、文化国家を再建してくれる事を信じて」 飛び立っていった…。日本の弥栄のため、後世に生きる私たちのために出撃していってくれたのである。
拉致被害者も救出できず、中韓両国の顔色を窺い、中国の人権問題であるにも関わらず、その非難決議も出せない国会議員、靖國神社に胸を張って参拝できない我が国首相、そして、平気で我が子を、我が親を殺める若者など、今の世の中、この英霊に胸を張ってこたえられるものがはたしているのだろうか。私は次のようにこたえてしまう。
「こんな日本になってごめんなさい」。
最後に。
日本一心のこもった恋文 「天国のあなたへ」
天国のあなたへ 秋田県 柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの「きみまち坂」につれていってもらいたい。
春のあでやかな桜花、
夏なまめかしい新緑、
秋ようえんなもみじ、
冬清らかな雪模様など、
四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね。
秋田県二ツ井町が主催した1995年2月14日バレンタインデー「第1回日本一心のこもった恋文」大賞に輝いた柳原タケさんが書いたものである。柳原さんは当時80才で秋田市に住んでおられた。この文は靖国神社の遊就館のビデオにも紹介されており、元雑誌「正論」編集長の大島信三氏のブログにもこの文と出合った時の感動が述べられている。
戦死した夫は三十二歳のままで柳原タケさんの心の中に生き続けています。
傘寿(さんじゅ)とありますから、この天国への書簡はタケさんが八十歳のときに書いたものであることがわかります。おそらくタケさん自身もずっと新婚当時の気持ちのままで夫と対話してきたのでしょう。
それにしても、なんとも瑞々しい文章です。愛情の継続性に驚嘆します。
同時に、つかの間の新婚生活しか過ごせなかった時代に巡り合わせてしまった不遇にことばもありません。
この一文をメモ帳に書き留めていましたら、三人連れの中年女性が立ち止まりました。彼女たちは読み終えたあと、嗚咽しながらその場を離れていきました。
「正論」編集長 大島信三
「正論」平成15年8月号 編集長メッセージより
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言発令の中で迎える8月。今年もいつもと違う夏を迎える。私は、「命のバトン」を受け継ぐべく、心静かに靖國神社を参拝するため、8月15日を外して参拝する。本殿で昇殿参拝をし、英霊の思いや功績に深く感謝し、「ありがとうございました」と感謝の気持ちを述べたい。毎年のことであるが、本殿で昇殿参拝をすると爽やかな風が吹く。まるで、歓迎してくださるように。心より感謝、である。
連日、東京五輪の日本人選手の活躍に、興奮の毎日という読者も少なくないだろう。そして、それとは関係なく、今年も日本にとっての「敗戦の日」を迎える。
8月15日を「終戦記念日」とマスコミはこぞって報道するが、私は「敗戦の日」と言っている。日本にとって大東亜戦争に負けた屈辱の日であって、「記念日」と呼ぶのは遺憾であるためだ。
この時期になると、マスコミはこぞって靖國神社への公式参拝問題を取り上げる。「公人としてですか?私人としてですか?」と閣僚他国会議員が参拝するとそう質問し、そして左翼勢力は中韓両国の反発を取り上げ糾弾する。それこそ、宗教を否定し、信仰を禁じている中国共産党とは、まして神道について話し合う性質のものではなく、国の主権と誇りを堅持して毅然として対応すべきものであるにも関わらず、政府は「遺憾砲」を唱えるだけ。毎年のことであるため、うんざりする。
靖國神社参拝問題を論じるに、よく、戦争戦犯である「いわゆるA級戦犯」が祀られているから問題だという者がいるが、「いわゆるA級戦犯」は東京裁判史観に基づく名称であって、国際法上、問題視される大東亜戦争戦勝国が付けた呼称である。「東京裁判史観」に毒された左翼勢力の言い分であって、「A級」とか「B・C級」とか関係ない。歴史は今の価値観で物事を見るのではなく、その当時の目線に落とし込んで見なければ、正しい解釈などできるはずもない。問題ある東京裁判史観による戦勝国の価値観で歴史を見るものでもない。
靖國神社は東京招魂社の名称で、明治天皇のご発意により明治2年(1869)年6月29日に創建された。明治12年に現在の名称となった。幕末の戊辰戦争以降、国のために戦死した246万余柱の霊が祀られており、うち、213万人が大東亜戦争の死者の霊だ。明治天皇は明治7年1月27日、初めて東京招魂社へ行幸され、「我国の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉垣」という御製を詠まれている。国のために尽くした人々の御霊は、国が末永くお祀りすべきであるというのが明治天皇のご意向であったかと思う。しかし、この思いとは裏腹に、8月15日になると、マスコミは「国会議員が靖國神社を参拝しました」と穿った報道を行う。今日の平和があるのは、先の大戦で戦ってくれた先人のおかげであるのに。その先人を敬い、参拝することが、どうしていけないことなのか。不思議でならない。そして、筆者はこれらの報道を毎年、「アホか」と思ってみている。
歴代首相のほとんどが8月15日に、靖國神社に参拝してきたが、昭和60(1985)年8月15日の中曽根康弘首相参拝以降、「敗戦の日」の参拝は途絶えたままである。櫻井よしこ氏は、『異形の大国 中国』で、以下の通り記している。
「ここで想い出すのは中曽根康弘氏だ。氏は首相在任時の85年、靖國神社公式参拝を中国に非難され、翌年から参拝を止めた。氏はその理由を、胡耀邦党総書記の失脚を避けるためと説明した。良好な日中関係を築こうとした胡総書記の足を引っ張らないために、胡批判の材料とされかねない日本国首相の靖国神社参拝は中止するのがよいと、中曽根氏は決断したというのだ。だが、権力争いにおいて政敵を葬り去る口実など、山程作り出せるものだ。中曽根氏の配慮などなんの役にも立たず、胡総書記は失脚、そして中国は今日に至るまで靖国カードを握るに至った。中曽根氏は明らかに判断を間違えたのである。そして今もその間違いの延長線上に立ち、靖國に代わる施設を建立せよと説く。政治家が自国の国益を二の次にして他国の国内政治の片方の勢力に力を貸した結果がこれである」と。
中曽根首相は悪しき前例を作り出した張本人であるといっても過言でない。この行為が、中韓両国の日本批判を助長させた引き金であった。
私自身、毎年8月に「靖國神社昇殿参拝、遊就館見学」イベントを個人で開催している。もし、自分の先祖が過去の戦争で亡くなっていたならば、今ここに自分は存在していない。今ここに存在しているのは、自分の先祖の代わりに命を捧げて戦ってくれた先人のお陰様である。自分の祖父も大東亜戦争で満州の最前線で戦った一人である。祖父が生き長らえたからこそ今、自分は存在する。自分の先祖を供養することはもちろんだが、それ以上に先人に感謝することはとても大切なことであると考えている。先祖のお陰様で「日本人としての私が存在し、日本という国がある」のと思うからだ。これらを実感し、歴史は先祖がつくった日本という国の「国づくり」の歩みであり、私達は先人の尊い、膨大な数の「命のバトン」を受け継いで、今ここに生きていることを認識すべきだと考える。
そのような思いから、本イベントを平成28年から実施している。国のために尊い命をささげた先祖を弔い、心から平和を祈る戦没者慰霊の中心施設である靖國神社に昇殿参拝し、英霊に感謝をして、そして遊就館を見学することによって今日の学校教育とは違った視点から歴史を学ぶことを目的に今年も8月21日(土)に実施する。そして、靖國神社職員による「英霊と沖縄戦」と題した講演をしていただくこととしている。プロパガンダに毒された沖縄の歴史ではなく、また違った角度で語る歴史の真実を聞くことができる。
今日の平和があるのは先の大戦で戦ったくれた英霊のお陰様。その英霊に感謝の気持ちを述べない国会議員に疑問を感じるのは私だけであろうか。
ここで、以下を紹介したい。
謹啓
初春の候と相成り、その後、御両親様には、お変りなくお暮しのことと思います。
お父さん、お母さん、喜んで下さい。
祖国日本興亡のとき、茂も待望の大命を拝しました。
心身ともに健康で、任務につく日を楽しみに、日本男児と、大橋家に、父と母の子供と生まれた喜びを胸に抱いて、後に続く生き残った青年が、戦争のない平和で、豊かな、世界から尊敬される、立派な、文化国家を再建してくれる事を信じて、茂は、たくましく死んで行きます。
男に生まれた以上は、立派な死に場所を得て大空の御盾となり、好きな飛行機を、我が墓標と散る覚悟であります。
親より先に死んで、親孝行出来ない事をお許し下さい。
お父さん、お母さん、長生きして下さい。
お世話になった皆様方に、宜しくお伝え下さい。
この便りが最後になります。
昭和二十年三月二十四日 遠き台湾の特攻基地より 茂
父上様 母上様
身はたとえ 南の空で果つるとも とどめおかまし 神鷲の道
大命を拝して十八歳 茂
これは、18歳で台湾から特攻で出撃していった大橋茂命がご遺書としてご両親に宛てた手紙である。
「後に続く生き残った青年が、戦争のない平和で、豊かな、世界から尊敬される、立派な、文化国家を再建してくれる事を信じて」 飛び立っていった…。日本の弥栄のため、後世に生きる私たちのために出撃していってくれたのである。
拉致被害者も救出できず、中韓両国の顔色を窺い、中国の人権問題であるにも関わらず、その非難決議も出せない国会議員、靖國神社に胸を張って参拝できない我が国首相、そして、平気で我が子を、我が親を殺める若者など、今の世の中、この英霊に胸を張ってこたえられるものがはたしているのだろうか。私は次のようにこたえてしまう。
「こんな日本になってごめんなさい」。
最後に。
日本一心のこもった恋文 「天国のあなたへ」
天国のあなたへ 秋田県 柳原タケ
娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの「きみまち坂」につれていってもらいたい。
春のあでやかな桜花、
夏なまめかしい新緑、
秋ようえんなもみじ、
冬清らかな雪模様など、
四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね。
秋田県二ツ井町が主催した1995年2月14日バレンタインデー「第1回日本一心のこもった恋文」大賞に輝いた柳原タケさんが書いたものである。柳原さんは当時80才で秋田市に住んでおられた。この文は靖国神社の遊就館のビデオにも紹介されており、元雑誌「正論」編集長の大島信三氏のブログにもこの文と出合った時の感動が述べられている。
戦死した夫は三十二歳のままで柳原タケさんの心の中に生き続けています。
傘寿(さんじゅ)とありますから、この天国への書簡はタケさんが八十歳のときに書いたものであることがわかります。おそらくタケさん自身もずっと新婚当時の気持ちのままで夫と対話してきたのでしょう。
それにしても、なんとも瑞々しい文章です。愛情の継続性に驚嘆します。
同時に、つかの間の新婚生活しか過ごせなかった時代に巡り合わせてしまった不遇にことばもありません。
この一文をメモ帳に書き留めていましたら、三人連れの中年女性が立ち止まりました。彼女たちは読み終えたあと、嗚咽しながらその場を離れていきました。
「正論」編集長 大島信三
「正論」平成15年8月号 編集長メッセージより
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言発令の中で迎える8月。今年もいつもと違う夏を迎える。私は、「命のバトン」を受け継ぐべく、心静かに靖國神社を参拝するため、8月15日を外して参拝する。本殿で昇殿参拝をし、英霊の思いや功績に深く感謝し、「ありがとうございました」と感謝の気持ちを述べたい。毎年のことであるが、本殿で昇殿参拝をすると爽やかな風が吹く。まるで、歓迎してくださるように。心より感謝、である。