『法華経を生きる』に学ぶ
2024.01.25
久しぶりの投稿となる。

年末年始、多忙を極め、気が付けば、年を越していた。
改めまして、皆様、今年もよろしくお願いいたします。

今年は年初から能登半島地震、羽田空港航空機衝突事故などの出来事からスタートするなど、波乱な幕開けとなった。犠牲になられた方々に改めて哀悼の意を表するとともに、被災された皆様に心からお見舞いを申し上げる次第である。
また、政治も、自民党の派閥による政治資金パーティーを巡る政治資金収支報告書不記載問題や、芸能界においても週刊文春による松本人志氏の性加害問題、昨年まで遡れば故ジャニー喜多川氏による性加害問題と、マスコミを賑わす話題ばかりだ。
新聞、テレビをはじめ週刊誌のこの報道の取り扱い方や仕方、内容など、私の個人的な感想になるが、腑に落ちないものばかり。一体、本質は何なのだろうかと思ってしまう。人を貶めることが目的なのか、それともその背景には何があるのか。ネットを始め、色々な情報が氾濫している昨今だからこそ、何が真実で何が嘘なのか、見極めなければ、翻弄されてしまう。そう思う世の中になった。

霊友会の創設者の一人である小谷喜美教主との縁で法華経に携わるようになったとする故石原慎太郎氏。その著書『法華経を生きる』は、そのありのままの姿、真実である「実相」を捉えるのにとても参考になる記載がある。「第二章『十如是』とは何か」の中の「出来事の正しい解明のために」という項があり、その中で以下の記載がある。
「法華経は全体が二十八章で構成されているがその第二番目に「方便品」というのがあります。(中略)ここではものごとがなんで今の形に成りきたって、それを具体的にどうとらえることで最も適切な方向を講じることが出来るかという手引きが教えられています」。
「曰くに、『所謂諸法の如是相・如是性・如是體・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究境等なり』があるのだといっている」。
これは法華三部経の中の、「妙法蓮華経方便品第二」の教えで、故石原慎太郎氏はこの本の中で釈迦の教えである「十如是」の大切さについて解いている。
要約すれば、十如是とは、「相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等(相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)をいい、諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この10の事柄によるものだ」という。
臨済宗の僧侶・松原泰道師はこれらの如是を、「自分という人間は」と置き換えてみたら一番よくわかるとも言っているが、
さらにかみ砕いていうと「すなわち、全ての現象・物事には持ち前の相=姿があり、相にふさわしい性=性質や、体=本体がある。体は力=潜在力を持ち、常に外に向け、色々な作=作用を起こしている。つまり、この世の全てのものには、必ず相・性・体・力・作があり、それらは互いに因=原因となり、縁=機会・条件となって、関係し合いながら変化し続け、千差万別の果=結果と、それによる報=報いを作り出しているのである。こうした諸現象は複雑に絡み合っていて、人間の知恵では原因と結果のつながりに見えにくいことも多いのだが、その実、全ては初め=本の相から終わり=末の報まで、ふさわしくつながり合って展開していく=究竟等のである。これが諸法の実相であり、本仏=真理の働きなのである。
要するに、事の本質「実相」を捉えるに、すべてのものごとは十の如是(要因)によって形となって表れてくるのだという。
石原氏はことの真実を見極めるのに、十如是の教えが根本にあり、これは宇宙の法則に基づくものであると先述の書籍に記述している。よく、結局「仏陀の掌の上」で動かされているという表現をするが、言い換えればこのことなのかもしれない。

私はこの十如是の考え方にアドラー心理学の「目的論」と、マズロー心理学の「欲求5段階説」を加えて捉え、考えていくことをよくする。そうすると、ある一定の答えが導き出されるのである。
「人間はある一定の目的に沿って行動し、良いも悪いも個人や組織の『欲』を満たす裏の目的のために結果を生み出そうとする」こと。
これは、私が心理学を独学で学び、その結果、導き出された答えであって、周囲の方々に強制されるべきものではないが、ある程度、この作用が働いているのだと思ってならない。

例えば、自民党の派閥による政治資金パーティーを巡る政治資金収支報告書不記載問題で言うと、朝日新聞は「裏金」と報道しているが、事の本質は「政治資金収支報告書不記載」であって、裏金と称する表現とは異なる。記載していれば問題がなかった。しかし、お金の集め方は確かに問題であるし、厳格化すべきであるが、政治資金規制法を強化しても、まずは記載を徹底することが重要であることに対する問題点を浮き彫りにし対応ずべきで、派閥解消までの議論になるのは、私は腑に落ちない。派閥を解消すればことが解決するかの如く自民党は対応しているが、問題の本質は派閥解消ではない。そして、派閥は何のために集まっているのかの本来の在り方を深く見ていかなければマスコミが作り出す貶めるための情報に、派閥解消が解決であるかの如く自民党の対応はいかがなものであろうかと思うし、情報に対して感情的な条件反射はしてはならないと考える。

松本人志氏の性加害問題についても、人権にかかわる問題であるので、慎重に言葉を選ばなくてはいけないが、週刊文春はこうした「文春砲」と称するスクープを勃発するのに対し、私はその意図は世直し的な動きなのか、または、売れれば何をしても良いのかという考え方や背景も加味して、情報を読み取らなければならないかと思っている。さらには、勇気をもって告発した人に対し、辛い、苦しかった気持ちは察するが、その目的とするところが今一つ理解できない部分もある。週刊文春はいくつもスクープを報じてきたが、それは良いものもあれば、人の心をも傷つけ、家族崩壊、さらには人の命をも奪う両刃の剣であることに、大きな違和感を持ってしまう。抽象的な言い方しかできないが、本来、あるべき姿とはどこにあるのかを深く考えてしまうのである。

先述した、十如是の真理を悟るとともに、法華経では実践していく過程の中で、その方法論に六波羅蜜(布施=親切=金銭や物を施す財施・正しく伝える法施・体を使って行う身施、持戒=言行一致・人のために尽力すること、忍辱=忍耐・平常心を持つこと、精進=努力、禅定=反省・心静かに定めること、智慧=修養・自己中心的にならないこと)をベース、下敷きにし、八正道(正見=正しい見解、正思=正しい思惟、正語=正しい言葉、正業=正しい行い、正命=正しい生活、正精進=正しい努力、正念=正しい思念、正定=正しい精神統一、心の安定)等を実践することを説いているのだが、これらを捉えて行動し、物事を見ていくと、とても理屈に叶い、納得していけることが多い。

表面化した事象に条件反射することなく、ことの本質は何なのかを考え、そして、それを捉え、どう行動すべきなのかを深く考える必要があると、新年の初めに思った次第である。
2024.01.25 15:57 | 固定リンク | その他

TOP