拉致被害者奪還のために
2021.11.18
去る、11月15日。昭和52年に横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてから44年が経過した。
地村保志さん夫妻・蓮池薫さん夫妻・曽我ひとみさんの5人の拉致被害者が帰国したのは平成14年のことで20年弱の年月が経過している。しかし、政府は拉致問題を「最優先課題」としながら、5人の拉致被害者が帰国してから20年近く、ひとりの帰国も実現できていない。すなわち、拉致問題は現在進行形の問題なのである。

北朝鮮による拉致被害者の早期救出を求めて、今年も11月13日、「国民大集会」が実施された。田口八重子さんの兄で、家族会代表の飯塚繁雄さんは、集会の冒頭で「われわれは諦めるわけにはいかない。なにがなんでも解決するという思いを今回、特にブルーリボンバッジにあてた。バッジとともに、皆で勢いをつけていきたい」と語った。
ブルーリボンは、北朝鮮にいる拉致被害者と家族を結ぶ「青い空」と、日本と北朝鮮を隔てる「日本海の青」をイメージしたもので、被害者の生存と救出を信じる意思表示として広く着用されているもの。
今回の集会では、ブルーリボンに関し、12月10~16日の北朝鮮人権侵害問題啓発週間中、全ての閣僚や国会議員、地方議員らのほか、多くの国民に着用を要望。初めて決議項目に盛り込んだとされている。田口さんの長男、飯塚耕一郎さんは「ブルーリボンバッジを着けていると『これは何ですか』と聞かれることがある。まだ拉致への理解が浸透していないことを実感する」と率直な思いを明かす。
決議文では、「親の世代が被害者と抱き合うことなしには、日本の怒りは解けず、支援はあり得ないことを、北朝鮮の最高指導者に伝えることが、今大切だ」と記した。親世代を中心に高齢化が進み一刻の猶予もない現状で、日本が〝一枚岩〟となる必要性は増している。
めぐみさんの母、早紀江さんはこの日のあいさつで、「娘を13年間しか育ててあげられなかったことは本当に悔しい」と、母親としての悲痛な思いを吐露。「心が結集すれば日本は変わっていく」とし、国民一丸となっての取り組みに期待感を示した。前回(昨年10月)の国民大集会では、同じ日に、めぐみさんの父、滋さんのお別れ会が催された。この1年、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、拉致問題はこれまで以上に停滞。家族の間には、「風化」への懸念が高まった。めぐみさんの弟の拓也さんは「あっという間の1年だったが、何も前進していない。いらだちが本音だ」。そして、「自分の家族が被害者だったらどうか。拉致を我がことと捉えてほしい」と改めて国民の理解と協力を求めた。
 
私は、1日も早い帰国を祈念しつつ、来年の2/23(水・祝)に、私の私塾「寺子屋『玉川未来塾』」主催で、映画「めぐみへの誓い」上映&トークライブを開催することとした。

北朝鮮による拉致事件を題材にした映画『めぐみへの誓い』の制作発表記者会見が令和2年2月13日、参議院議員会館で行われた。今年、その映画が上映され、多くの国民が観たことであろう。
映画の原作は「めぐみへの誓い-奪還-」という演劇。横田めぐみさんが拉致されてから2年、「北朝鮮拉致事件」をテーマにした日本映画が一本も存在しない事から企画がスタート。拉致の残酷さと実態、拉致被害者救出を世界に訴えることを目的として、昨年7月にクラウドファンディングを実施。現在までで支援参加者3,500人以上、支援総額4,850万円を超えるなど多くの方の賛同と共感を得て「本格的な映画製作」が実現することになり、3月にクランクイン、そして劇場公開となった。
監督・脚本の野伏翔氏は長い間、この問題に取り組み、向き合い、そして舞台「めぐみへの誓い-奪還-」を全国公演しては拉致被害者を救うべく啓蒙活動を行っている。そして、その時の記者会見で野伏監督は「(横田さんが)元気なうちに何とかしたいという思いがある。横田さんは、いつも電話を掛けると『はいっ!』とすぐに出てくるんです。いつ、めぐみさんが帰ってくるのかと期待して…」と声を震わせながら作品に掛ける思いを語った。監督の思いは我々の想像以上に深いのである。
そんな中、拉致被害者、有本恵子さんの母、有本嘉代子さんが逝去され、横田滋さんも令和2年6月5日に亡くなられた。被害者家族のことを思うと悲しみ深く、残念でならない。

10月2日付産経新聞で横田早紀江さんは「めぐみへの手紙」で以下のように綴っている。

北朝鮮は一筋縄ではいかない、手ごわい相手であることは重々、承知しています。でも最後は、最高指導者に被害者全員を返す決断を求め、それこそが世界の平和を導く術だと、心の底から理解してもらわなければなりません。
私たちはこれまで、日本の首相が代わるたび顔を合わせ、即時解決への訴えを重ねてきました。お父さんも家族会代表として救出運動の最前線に立ち、全国を飛び回りました。体を病み入院しても、あなたと抱き合うため、病床で必死に命の炎を燃やしました。再会の思いを果たせず、天に召されたお父さん、多くの被害者家族、そして支援者の皆さん。託された奪還の願いを実現するまで、お母さんたちは倒れるわけにはいきません。
日本では近く、大切な選挙が行われます。政治家の皆さま。遠く離れた異国の暗闇で、救いを待つ子供たちを思ってください。命の問題である拉致事件を、党派を問わず真心から議論してください。知恵を絞り、一日も早く、解決への歩みを進めてください。
新たなリーダーには、残された時間の少なさを直視し、具体的な動きにつなげていただくことを願ってやみません。拉致問題はまさに、「正念場」です。国民の皆さまもどうか拉致事件を己のこととして感じ、それに向き合う政治のありようを凝視し、解決を後押ししてください。
19年前の9月17日。無事を信じて、自宅に置いためぐみちゃんの写真に「早く帰っておいで」と声をかけました。思いはかなわず、想像を絶する長い闘いになってしまいましたが、タラップから下りてくるあなたと、笑顔で抱擁できる日が必ずやってきます。
めぐみちゃん、あともう少し、待っていてね。お母さんは最後の力をふり絞って、闘いを続けます。

涙で「めぐみへの手紙」が読めなくなった。

今朝まで元気で学校に向かっていった我が子が、突然、消息不明となり、家に帰ってこない状態を想像してみてほしい。その家族は本当に平和状態だと言えますか。戦争がない状態だけが平和な状態なのか。他国に連れ去られた拉致被害者を救えないでどうして平和だと言えるのか。そして、国民はこの問題を我がことのように捉えているのだろうか。すでに、この拉致事件を知らない世代も多く、風化していく恐れもあるのが現状です。
一方で、こういった難解な問題を真剣に考えた千葉県八街市立朝陽小学校の5年生が令和元年、産経新聞東京本社を訪れ、「横田めぐみさんへ」と題した75人分の作文を届けてくれた。作文には、被害者の帰国を強く願う思いが綴られており、小学生を指導した先生と真剣にこの問題に取り組んだ小学生に敬意を表したい。
子供を殺める親、平気であおり運転をする者、「皆がしているから自分も」と迷惑を顧みず、事の真意を考えないで行動する者など、不道徳なニュースが毎日報道される。個人の主張だけが尊重され、公の問題は無関心。本当に考えさせられる。日本は確かに豊かになった。しかし、日本人として大切な何かを失っている気がしてならない昨今である。

今回、寺子屋「玉川未来塾」で開催する「映画『めぐみへの誓い』上映&トークライブ」では、長年、この拉致問題に関わってきた、ジャーナリストの葛城奈海さんや、監督の野伏翔監督らにご登壇いただき、お話をお聞きしたいと思う。
皆さんには、本映画「めぐみへの誓い」を通じ、この問題に長い間、取り組み、向かい合ってこられた野伏翔監督の思いや、横田めぐみさん役の菜月氏、横田早紀江さん役の石村とも子氏らがトークライブを通じて話す、拉致の残酷さと実態を感じて欲しい。そして、このイベントが拉致問題解決に向けて、我がこととして捉えるきっかけとなり、拉致問題早期解決に向けて、国民の声が高まり、その一助になればこんなに嬉しいことはない。
2021.11.18 07:27 | 固定リンク | その他
御礼!映画「さつまおごじょ」上映&トークライブ
2021.11.08
去る11月7日(日)、靖國神社にて「映画『さつまおごじょ』上映&トークライブ」を無事に執り行うことが出来ました。

緊急事態宣言も解除されたというものの、通常の生活が戻らない中ではありましたが、お陰様で、ご招待者、一般来場者、スタッフも含め、約100人の方々にお越しいただき、会場は満席となりました。そして、ご登壇をいただきました、映画監督の柿崎ゆうじ監督、ジャーナリストの葛城奈海さん、そして、企画から本日まで、靖国神社様には大変お世話になりました。本当に有り難い限りです。また、当日、スタッフとしてお手伝いをいただきました皆様も心から御礼申し上げます。

映画「さつまおごじょ」で鳥濱トメさんを演じた伊藤つかささんや、赤羽礼子さんを演じた竹島由夏さん、薩摩おごじょの赤羽潤さんにもお越しいただき、本当に有り難うございました。

この日も、来場者皆様と本殿にて昇殿参拝をさせていただき、今日の日本の礎を築いた英霊に感謝の誠を捧げさせていただきました。その時の爽やかな風は英霊が、まるで私たちを歓迎してくれたかのような柔らかな風でした。

靖国神社には幕末の戊辰戦争以降、国のために戦死した246万余人の御霊がまつられていますが、そのうち213万人が大東亜戦争で亡くなられました。
昭和19年10月に特攻作戦が開始され、沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間(けらま)列島に上陸した昭和20年3月26日から始まりました。
特攻作戦とは、「特別攻撃作戦」の意味で、他の戦闘と根本的に違う点が「必ず死ぬこと」が定められた作戦であるということです。
重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈めるという「必死」条件の作戦でした。
特攻作戦は、鹿児島県の知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃しています。その全特攻戦死者1,036名。その中でも、知覧基地が本土最南端だったということもあり、439名と最も多く特攻作戦で戦死しています。
その知覧で「富屋食堂」を営み、その出撃前のわずかな日々を富屋食堂で過ごした10代から20代の若い特攻隊員達をわが子のように慈しみ、私財を投げ打ってまでも親身に接したのが「鳥濱トメ」さんでした。

映画「さつまおごじょ」は、その「トメ」さんの次女、赤羽礼子さんと、お孫さんの潤さんの物語で、昇殿参拝後に上映しました。

礼子さんの自宅を訪ねてきた元特攻隊員達との再会から物語は始まります。かつて富屋食堂で過ごした安らぎの時間や、戦友同然と慕う礼子さんに懐かしさを憶えた彼らは、毎晩礼子の自宅で酒を酌み交し、歌を唄いました。それから2年後、生き残った特攻隊員達の為に自分には何ができるか悩んでいた礼子さんは東京で「薩摩おごじょ」を開店させます。

戦後、生き残った特攻隊員たちの苦悩が描かれているシーンがあります。

「戦中は軍神ともてはやされ、戦後は軍国主義の象徴だ、特攻崩れだと散々蔑まれ、国民は特攻隊であった我々のことや、散っていった友のことを覚えてくれている者はいったいどれだけいるのか。我々は何のために戦ったのか」

戦後、これが現実であったと私は考えます。私の祖父も戦中、満州に赴き、戦後、日本に帰ってきました。戦争のことを語らなかった祖父に、中学生の時、私は思い切って戦争のことを聞いた際、このシーンと同じようなことを言っていたことを思い出しました。

しかし、赤羽礼子さんは、生き残った特攻隊員達にこのように言います。

「犬死なんかじゃない。(中略)戦争には負けたけど、日本はわずかな年月で復興したんです。平和になって戦争におびえず、希望のある生活を手に入れたんです。それは、国を護ろうとして、父母兄弟を護ろうとして、故郷を護ろうとして、自らの命を捧げてくれた人がいてくれたから今があるんです。そして、生き残ってくれた皆さん、あなた方がいてくれたから、あの、何にもなかった焼け野原から今日ここまで、こんなに早く復興できたんです」。

それを聞いた彼らは、次のように言うのです。

「俺たち、生き残ってよかったんだよな」。

戦後、生き残った特攻隊員達が鳥濱トメさんを訪ね、靖國で会おうと誓った仲間に顔向けができない、生きる気力がわかないと苦しみを吐き出したとき、トメさんはその生き残った特攻隊員たちにこう言ったと言います。

「なぜ、生き残ったのか考えなさい」と。

私が産経新聞社正論調査室に販売兼事業担当部長として勤務していた頃、「大東亜戦争を語り継ぐ会」というイベントを開催していました。
ジャーナリストの井上和彦さんをファシリテーターに、元軍人の方々に登場してもらっては、「あの戦争」の真実を語っていただきました。しかし、その頃に登壇してくださった、戦艦大和副砲長の深井俊之助さんや、本土防空に奮迅された竹田五郎さん、フィリピン特攻の直掩で最後の紫電改パイロットの笠井智一さん、ペリリュー島の戦いから帰還した土田喜代一さん、水上爆撃機「瑞雲」機長の加藤昇さん、そして、支那大陸を歴戦し、大陸打通作戦にも参加した常盤盛晴さんなど、この1,2年で次々に亡くなられています。本当に悲しい。そして、心からお悔やみを申し上げますとともに、英霊たちの歴史を正しく語り継いでいくためにはどうしたらよいかを考えさせられました。元軍人の方々から生のお話を聞くのが年々、難しくなると同時に、伝聞で伝えることが多くなります。伝聞で伝わる途中にプロパガンダが挟み込まれ、そのプロパガンダが正しい事実であるかのように、独り歩きし、それがあたかも本当のことのように「史実」として語られることは避けなければならない。そう思うのです。

映画上映後、この映画「さつまおごじょ」の映画監督の柿崎ゆうじ監督とジャーナリストで先日、アパ日本再興大賞を受賞した葛城奈海さんとのトークライブ「特攻隊が遺したもの」と題したトークライブでは、「日本人の本質とは何ぞや」を学ばせていただきました。「魂が乗らないと伝わらない」「背骨をしっかりと、私を律して、公のために尽くす心を育てる」「何かに依存していたら本物は作れない」など貴重なお話を聞かせていただきました。ご来場をいただきました皆様はどう感じられたでしょうか。ぜひ、お聞かせていただきたいと思います。

今回のトークライブの模様は11/21まで、アーカイブ配信をしております。
「寺子屋玉川未来塾HP」より「イベント」から「イベント履歴」をご覧ください。「「映画『さつまおごじょ』上映&トークライブ」のお知らせ」をクリックし、「ツイキャス」をクリックするとお手続きが可能となりますので、ご興味のある方は是非とも観ていただきたいと思います。

URLからですと、以下の通りです。
https://twitcasting.tv/g:104311280613070825878/shopcart/102156?fbclid=IwAR1_r56O-3LXaAEtTo4o9PIs6rW3gPKjkqWhPBV0vbgt4meOvEDwter73jk

そして、最後にご遺書を朗読させていただきました。

「陸軍中尉 久野正信(くの・まさのぶ)命」

正憲(まさのり) 紀代子(きよこ)へ

父ハ スガタコソミエザルモ イツデモ オマエタチヲ見テイル。
ヨク オカアサンノ イイツケヲマモッテ オカアサンニ シンパイヲ カケナイヨウニシナサイ、ソシテ オオキクナッタナレバ ジブンノスキナミチニスススミ リッパナ ニッポンジンニ ナルコトデス、ヒトノオトオサンヲ ウラヤンデハイケマセンヨ。 「マサノリ」「キョコ」ノオトオサンハ カミサマニナッテ フタリヲジット見テヰマス。フタリナカヨクベンキョウヲシテ オカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトオサンハ 「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケドモ フタリナカヨクシナサイヨ。 オトオサハ オホキナジュウバクニノッテ テキヲゼンブヤッツケタゲンキナヒトデス。
オトオサンニマケナイヒトニナッテ オトオサンノカタキヲウッテクダサイ。
父ヨリ
マサノリ キヨコ フタリヘ


「海軍大尉 市島保男命」

ただ命を待つだけの軽い気持ちである。
隣の室で「誰か故郷を想はざる」をオルガンで弾いてゐる者がある。平和な南国の雰囲気である。

徒然なるまゝにれんげ摘みに出かけたが、今は捧げる人もなし。

梨の花とともに包み、僅かに思ひ出をしのぶ。夕闇の中を入浴に行く。

隣の室では酒を飲んで騒いでゐるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持ちでゐたい。

人間は死するまで精進しつゝ゛けるべきだ。ましてや大和魂を代表するわれわれ特攻隊員である。その名に恥ぢない行動を最後まで堅持したい。

俺は、自己の人生は、人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じてゐる。

精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでゐた人々の美しい愛情のおかげであつた。今かぎりなく美しい祖国に、わが清き生命を捧げ得ることに大きな誇りと喜びを感ずる。


この、二柱のご遺書。目にたまる涙を、落とさずにいることができませんでした。

こうして、色んな方々に支えられ、イベントを開催し、今日まで至っている環境に、本当に「有り難い」という言葉以外に見つかる言葉がありません。心から感謝申し上げます。そして、改めましてありがとうございます。

そして、このイベントではご来場をいただきました皆様に、新宿三丁目の「薩摩おごじょ」での無料お食事券をプレゼントさせていただきました。それを持参し、ぜひ、足を運んでいただきたいと思います。また、このミニコミを読んでいただいています皆様も、足を運んでみてはいかがでしょうか。そこには、なでしこ隊として、特攻隊員たちのお世話をした、鳥濱トメさんの次女、赤羽礼子さんが草葉の陰から優しく微笑んで、皆さんをお待ちしているかと思います。そして、お国のために戦ってくれた英霊を憂いながら、薩摩焼酎とつけあげを食べ、「今の日本の礎を築いてくれてありがとう」と感謝の気持ちを申し上げると、清々しい、良い気持ちで酔うことができるかと思います。
2021.11.08 14:52 | 固定リンク | イベント
先人に学ぶ安全保障
2021.10.01
 日本を取り巻く安全保障環境は、日に日に厳しさを増しており、中国は野望を露わにして、尖閣諸島を取りに来ている。

 歴史を振り返ってみると、明治期において、帝国主義列強諸国は、植民地政策として、アジア諸国に侵略を進めていたが、日本は国家の危機を脱却するため、中央集権的な国家体制の形成に成功した。
その明治維新後の日本に、甚大なる成果を成し遂げた、先人の中でも以下の3人に着目し、今こそ明治維新のリアリズムに学ぼうと思う。

・福澤諭吉
 言わずも知れた人物であるが、福澤といえば「文明開化」なる用語を編み出し、著作『西洋事情』『文明論之概略』により維新期日本の欧化政策に絶大なる寄与をなした啓蒙思想家である。その福澤の思想的立脚点の一つが「立国は私なり、公に非ざるなり」(「痩我慢之説」)であった。
 帝国主義列強がアジアを蚕食する一方、支那、朝鮮がこの「西力東漸(とうぜん)」の国際政治力学を理解できず「旧套(きゅうとう)」の中に「窒塞(ちっそく)」するという現状を前にして、福澤は「公」(コスモポリタニズム)ではなく「私」(ナショナリズム)の強化こそが「立国の公道」であることを、激情をもって訴えた。
 文明は普遍である。この原理において欧米は日本より先んじているとはいえ、普遍には遠い。この段階にあっては、国家という存在と忠君愛国なる「私情」が不可欠である。確執限りなき内外条件からすれば「自国の衰頽に際し、敵に対して固(もと)より勝算なき場合にても、千辛万苦(せんしんばんく)、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて、始めて和を講ずるか、若しくは死を決するは、立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称す可きものなり」と語り、これを痩我慢の説だと銘じた。
 人間という存在は、他の生命体と同じくその根本においては私であり、個の私情こそが至上の価値をもつ。しかし外国に対する場合には必ずや同胞としての私情が湧出し、国民としての私情すなわちナショナリズムという「偏頗(へんぱ)心」が優位を占めなければならないと福澤は説く。私情といい偏頗心というからには普遍としての文明からは隔たる心理ではあるが、各国民が私情と偏頗心を露わにしている以上、自らもこれを重んじなければ国はもたないと主張する。
 福澤は好戦主義者ではない。学問を究めて高尚なる人間として「一身独立」し、もって「一国独立す」べきことを説き、「独立の気力なき者は、国を思ふこと深切ならず」と論じて、独立不羈(ふき)の国民育成の緊急性を生涯にわたって主張しつづけた人物であった。
 今、現代の極東アジア地政学は幕末・維新期を再現させるかのごとくに剣呑な状況に入らんとしている。他国が自国の領域を平然と侵害する現状を拱手(きょうしゅ)傍観し、集団的自衛権のあれほど限定的な行使容認までに異を唱えるというのであれば、福澤はその「文明の虚脱」に泉下で深い慨嘆の息を吐いているのに違いないと考えるものであり、福澤が唱えるこれらの意義は、現在においても通ずるものでもあり、無視できないものである。

・陸奥宗光
 政治指導者に求められる資質にはさまざまなものがあろうが、最も重要な条件は国家的危機に予見し、これに迅速に対処する能力の如何である。開国・維新から日清・日露戦争に至る緊迫の東アジア地政学の中に身をおいたあまたの指導者のうち、位を極めたものはこの資質において傑出し、象徴的な政治家が陸奥宗光である。
 近代日本の最初の本格的な対外戦争である日清戦争に勝利し、下関で日清講和会議が開かれ、一進一退の攻防の末に条約調印に辿り着いた。しかし、講和条約によって割譲を受けた遼東半島の清国還付を強圧する露仏独の三国干渉が始まったのは、そのわずか一週間後のことであった。この三国干渉は、首脳部を徹底的に困惑させた。肺結核の業病に苦しみ、病に伏していた陸奥を訪れた伊藤博文との協議により、三国干渉の屈辱に甘んじることを決し、明治天皇による遼東半島還付の詔宣が出されたのは、三国干渉の開始から詔宣までの期間はわずか18日であった。「進むべしと判断した時には全力を持って相手に挑み、志ならず後退を余儀なくされた時には潔く身を引いて、次の好機に向け万全の体制を整える」。かかる政治家としての資質の在処を知る言葉である。
 日清戦争は言わずもがなだが、ロシアの南下政策を予測し、華夷秩序から朝鮮を引き剥がして朝鮮の自立を図らなければ、極東における日本の安寧はありえない。それゆえ、第三国の干渉を排して朝鮮自立の方策を立案し、さらには日清共同改革案を練り上げ、これが清国に拒否されるや、全力を清国との戦いに注ぎ込んでいこうという、外交官としての陸奥宗光の深い熟慮と迅速な判断、加えてその豪気には改めて目を見張らされるものがある。

・小村寿太郎
 小村寿太郎は明治33(1900)年2月に駐露公使に任用され、明治34(1901)年1月に北京に赴任。義和団事件対処の全権を与えられ、同年12月には駐清行使となった。小村はただちに清国皇帝・慶親王に謁見、義和団事件終息における露清協定を締結してはならない、ロシアの満州撤兵の約束をすぐ実行すべきだと進言。小村は日本の外務省を動かし、外務大臣ウラジミール・ラムズドルフに露清協定の有無を改めて問わせ、協約が事実であれば、その釈明を求めるよう迫った。しかし、ラムズドルフの回答は、木で鼻をくくったようなものであった。
露清協定は絶対にこれを認めないという小村の意思は固く、英独両国に対して「我が政府は協約案の撤回をもって列国全体の利益のために望ましきものと確信し、清国に対し指定の期限内に調印することなく、露国をしてこれを撤回するにいたらしむべきを勧告すべく、これについて英独両国政府と共同せんことを欲す」と働きかけ、同意を得た。
 清国は、結局のところ、自力ではどうすることもできず、外国の力を乞い、辛うじて窮状を脱することができたのである。露清協定は廃案となり、ひとまず満州は安定した。そして、小村は日英同盟締結へと尽力する。日英同盟の成立は、明治35(1902)年1月30日。この同盟の日本にとっての目的は、清国の領土保全、朝鮮の自主独立であった。その根本は、ロシアに対する日本の安全保障の確立である。
 小村は、明治期の政治家の一大資質たる「国権主義」を絵に描いたような人物であった。外交舞台は終始一貫、満州問題であり、この地に対するロシアの野心を砕くことに専心した。ロシア陸軍の協力にして残忍なることを知る小村は、日本が独力でこれに抗するのではなく、ロシアを共同の敵とする利害等しき他国と同盟して、ことに構えるべきだと考えていた。そして、ロシア協商論(満韓交換論)者の伊藤博文・井上馨に対し、対露強硬論者の桂太郎・小村寿太郎の論戦は有名であるが、元老会議において意見を戦わし、元老の主張にも一歩も引かない論戦を展開した。そんな逸話は数知れず。そして、日露戦争に突入し、辛勝した日本の講和条約へと向かう。その交渉力はまさしく獅子奮迅の如しである。

 日本を取り巻くアジア地政学の現在をどう読み解くか。振り返っておくべきは、極東アジアの近現代史である。近代日本における最大のテーマは、巨大なユーラシア大陸の中国、ロシアに発し、朝鮮半島を伝わって張り出す「等圧線」からいかにして身を守るか、にあった。

 現在の中国は、国際上秩序を無視して、力による海洋の現状変更に強固な態度を崩さない。北朝鮮は幾度となく核実験、ミサイル発射を敢行している。
 渡辺利夫拓殖大学顧問の著書『決定版 脱亜論』で福沢諭吉に触れ、以下のように記している。

「明治11年の『通俗国権論』において福澤は『大砲弾薬は以て有る道理を主張する備えに非ずして無き道理を造るの器械なり』という。
『無き道理を造』ろうとしている中国と北朝鮮に、国際法を順守せよといっても、所詮は“蛙の面に水”である。『苟も独立の一国として、徹頭徹尾、外国と兵を交ゆべからざるものとせば、猶一個人が畳の上の病死を覚悟したるが如く、即日より独立の名は下すべからざるなり』という。
外交が重要であるのはいうまでもないが、弓を『引て放たず満を持するの勢を張る』国民の気力と兵力を後ろ盾に持たない政府が、交渉を通じて外交を決することなどできはしない、と福澤はいう。極東アジアの地政学的リスクが、開国・維新期のそれに酷似する極度の緊迫状況にあることに思いをいたし、往時の最高の知識人(福澤諭吉)が、何をもって国を守ろうと語ったのか、真剣な眼差しでこのことを振り返る必要がある」と。

 評論家の江崎道朗氏が説く「DIME」の考え方は、今、考えれば、明治期には実践され、そして、戦前のインテリジェンスは、今よりも精度が高いものであった。現在の我々との違いの最たるものは、「死と隣合わせであったか否か」であると考える。戦争もなく、憲法9条に守られていると誤解を晴らそうともしない、そして、危機感がない現代社会において、明治期における安全保障と比べ物にならないかもしれないが、少なくとも、危機を脱したそこには、日本を護るという「気概」と何ものにも屈しない「独立不羈」の精神があった。故に、法整備及び防衛力、経済力増はさることながら、国民一人一人が日本を護る気概を確立する必要があるということに至り、現状における日本の危機に対し、先人の学ぶべき数多い「先例」は「安全保障国難」を打開する一つであると考える。
2021.10.01 09:28 | 固定リンク | その他

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